叢書・ウニベルシタス1065
映画と経験 クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ
価格:7,480円 (消費税:680円)
ISBN978-4-588-01065-1 C1310
奥付の初版発行年月:2017年08月 / 発売日:2017年08月下旬
クラカウアー、ベンヤミン、アドルノは、映画とは何かよりはむしろ、映画は「何をするのか」という問いを立てる。進化を遂げていくモダニティとしての映画、映画経験と映画を観る公衆の生きた経験との繋がりをなすモダリティ、いまだに予感しえない未来を生じさせる試みのなかで、映画という媒体、映画館という場のもつ可能性を追究する。映画学とフランクフルト学派が交差する思考の星座がここに煌めく。
ミリアム・ブラトゥ・ハンセン(ハンセン・ブラトゥ・ミリアム)
(Miriam Bratu Hansen)
1949年生まれ。フランクフルト・ゲーテ大学でアメリカ文学を専攻。エズラ・パウンド研究で博士号を取得後、渡米。イェール大学およびラトガース大学で教鞭をとり、1990年よりシカゴ大学英文科教授。映画メディア研究科の創設に尽力する。フランクフルト学派とメディアに関する研究を精力的に発表するかたわら、初期映画や映画とモダニティをめぐる論考を幅広く執筆。著書に、本書のほか、『バベル・アンド・バビロン――アメリカ無声映画における観客』(1991)。主な論考に、オスカー・ネークト/アレクサンダー・クルーゲ『公共圏と経験―ブルジョワ公共圏とプロレタリア公共圏の分析にむけて』英語版序文(1993)、「感覚の大量生産――ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画」(1999;邦訳:2010)、「ヴァナキュラー・モダニズム――グローバルな規模で映画を跡づける」(2009)など。本書脱稿直後の2011年2月に逝去。
竹峰 義和(タケミネ ヨシカズ)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は、ドイツ思想史、映像文化論。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。著書に、『アドルノ、複製技術へのまなざし――〈知覚〉のアクチュアリティ』(青弓社)、『〈救済〉のメーディウム――ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)。共訳書に、メニングハウス『吐き気――ある強烈な感覚の理論と歴史』(法政大学出版局)、アドルノ『文学ノート2』(みすず書房)、シュティーグラー『写真の映像』(月曜社)ほか。
滝浪 佑紀(タキナミ ユウキ)
1977年生まれ。シカゴ大学映画メディア研究科博士課程修了。専門は、サイレント映画研究、メディア論。東京大学大学院情報学環特任講師、特任准教授をへて、現在、城西国際大学メディア学部准教授。論文に、「「動き」の美学――小津安二郎に対するエルンスト・ルビッチの影響」『表象』7号ほか。
上記内容は本書刊行時のものです。
目次
序文
謝辞
略語
第Ⅰ部 クラカウアー
第1章 映画──崩壊していく世界の媒体としての自然
モダニズム的唯物論に向けて
写真、および歴史の一か八かの賭け
第2章 奇妙なアメリカニズム
装飾と公衆としての大衆
大衆文化、階級、主体性
競合しあう複数のモダニティ、狭まる選択肢
第Ⅱ部 ベンヤミン
第3章 アクチュアリティ、さまざまなアンチノミー
複製技術論文──テクスト上の戦略、概念上の被害
大衆、気散じ
第4章 アウラ──ある概念の我有化
一般的な意味におけるアウラ
アウラ芸術、美しい仮象
アウラ、原初的イメージ、夢意識
アウラ的な自己遭遇、生産的な自己疎外
第5章 月をボールと取り違えること
神経刺激
ミメーシス的能力
視覚的無意識
第6章 ミッキーマウス
集合的哄笑──治癒と恐怖
モダニストのメルヒェン
異種混交的な被造物──「自然目的論の破砕」
過剰と馴致
第7章 第二の自然の遊戯形式
《Spiel》と遊戯論
遊戯のための空間、第二の自然、反復可能性
遊戯のアンチノミー
第Ⅲ部 アドルノ
第8章 映画美学という問題
技法、技術
透かし絵
映像/文字
自然美、言語的性格
運動、時間、音楽
第Ⅳ部 亡命時代のクラカウアー
第9章 映画の理論
マルセイユ︲ニューヨーク
歴史の待合室としての映画
訳者あとがき
原註+訳註
索引