初版本、ナンセンスなフェティシズム

加藤周一編『世界大百科事典』

酒井道夫



 恥ずかしながら近頃はかなりウィキペディア情報に依存していて、これで大方は用が足りてしまう。で、全巻35冊に及ぶ百科事典(平凡社刊、1988、造本・デザイン杉浦康平)を所有してはいるものの場所塞ぎ。古書として購入して五、六年近くを経ていると思うが、これまで数えるほどしか利用できていない。でも、あこがれの『世界大百科事典』。このいささか尊大なタイトルで刊行開始されたのが1955年版(全32巻、林達夫編、装本原弘)。当時私は中学生だった。東京にはまだ瓦礫の山や浮浪児たちの群れも珍しくはなかったのに、戦後に台頭した富裕層の洋間にはこれが麗々しく並び始めていた。とてもじゃないが自分の境遇で所有できる代物ではなかった。
 ところが時代は巡る。古書店が百科事典なんか引き取らなくなり、ゴミ収集日に全巻をドカーンと門口に積み上げる場面に遭遇するまでになった。1、2冊で済むのなら失敬してくる手もあるが、こればかりは揃いでなくては意味がない。全巻で50キロを越えては持ち帰れない。ある話のついでに上記を余談として挟んだら、若い女性が「彼氏が古書店をやっているから聞いてみましょう」と言ってくれた。程なく当の店主から連絡があり、「箱詰めのまま引き取って放置している。検品なんかするとアシがでるからそのまま送っていいですか? 問題があったらその際に」と言う。荷物は版元出荷時そのままの梱包で届いた(某中堅ゼネコン社長室宛)。開封こそしてあるが本を抜き出した形跡もない。刊行以来15年に及ぶ長い旅路の末に我家に逢着、やっと書架に並んだわけだ。購入価格は仁義としてちょっと言えない。
 その後、さる大物政治家旧蔵の1955年版があるが譲り受けないかとのお話をいただいた。再版ものでかなり使い込まれた様子だが、こちらは背革特装本。お孫さんご自身でお運びくださって、タダ。「おじいちゃんの形見をゴミ扱いしなくて済みました。ありがとうございます」と言っていただいたのだが、わーい、置き場をどうしようか?
(武蔵野美術大学)



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