人文学、社会科学の振興と科研費出版助成

松本 功



 学術分科会の報告

 人文学、社会科学の分野の書籍の学術出版の役割については、科学技術・学術審議会学術分科会が出した「人文学及び社会科学の振興について(報告)」が、卓越した説明をしてくれている。この報告書は、個々の学術出版社、学術書の編集者に留まらず、研究者や学術書を売っている書店の方々まで、広く学術出版に関わるものにとってとても重要なものかつ画期的なものだ。ご存じない方のためにこの報告書を紹介するところからはじめたい。

 学問の評価のあり方としての書籍

 文部科学省の設置した審議会である「科学技術・学術審議会学術分科会は、平成19年5月より、科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会の下に「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」を設置し、人文学及び社会科学の学問的特性、役割・機能等を踏まえた振興方策について検討を行って」きた。これまで検討された内容が報告書としてまとめられ、公開された。
 報告書では人文学、社会科学の価値は、「他者」との「対話」とし「「他者」との「対話」という知的営為は、単に、学者個人の問題にとどまらず、古今東西の様々な歴史や文化が前提としている諸「価値」を学ぶことを通じて、自分自身はもとより、自分自身が帰属している社会集団が前提としている諸「価値」を相対化するとともに、他の社会集団が前提としている諸「価値」を抽出した上で、両者を比較考量するための高次の「(認識)枠組み」を構築し、これを用いて異なる社会集団の諸「価値」を練り直していく」ことだとしている。これが人文学・社会科学自体の目的であるといえる。
 報告書では、学問の評価のあり方として三つあると指摘している。一つめが、アカデミックな業界内的な評価、二つめがアカデミックな業界の外も含んだ評価で、三つ目が歴史的な評価である。アカデミックな業界内の評価は、学会誌がその機能を果たすけれども、業界内の評価だけでは不十分であるとして、業界外も含んだ評価のために書籍という媒体が重要であると指摘している。アカデミックな業界の外も含んだ評価を意識している方は、研究者の中でも少数派だと思われる。もしかしたら、出版社の編集者でもそうかもしれない。該当部分を引用する。

 人文学や社会科学の場合、書籍という形での研究成果の発信が、このような学術雑誌の査読システムの弊害を回避するための重要な研究成果の発信方法となる可能性を重く受け止めることが必要なのではないだろうか。…評価軸が多元であることから、評価方法を複合的に用意しておくことが重要なのである。このように、「社会における評価」や「歴史における評価」にさらされるという意味で、書籍の意義を重く受け止めることが必要であろう。人文学や社会科学の場合には、学術誌の査読という「アカデミズムによる評価」、書籍による(アカデミズムの評価も含めた)「社会による評価」のバランスを確保することが重要と考える(注1)

 この認識がなければ、他の業界、実験主体の理系的学問の領域の人々、学術政策に関わる官僚や議員、短期的な成果を重要視する人々に対して説明することは難しい。学術研究のあり方とともに、学術出版社も含めた学術コミュニティのあり方についても、他者との対話が必要なのだ。このことは、この報告書自体のテーマでもあるし、報告書でいう人文学および社会科学の存在理由そのものである。
 言語研究のジャンルにおいても、言語研究自体に客観的な真理があると考えていて、対話ということをあまり重要視せず、アカデミズム内部での議論だけでいいと考えるタイプの研究者の中には、学会雑誌があれば、書籍は不要であると考えている方もいる。しかし、たとえば、普遍性に強くこだわる生成文法も、アメリカの出版社が出版しなかったチョムスキーの処女作をオランダのムートン社が出版したことが、学の普及に大きな力があったことを思い起こすことができる。書籍出版の意味はあるということだ。

 学術出版の経済的規模

 さて、学術書を刊行している出版社のことを学術出版社といういい方をし、多くの場合は、大学出版局を含めて零細か小規模である。小さな規模の出版社が、学術出版を支えている。ひつじ書房は、言語学、日本語の研究、や英語や他の外国語の言語研究の書籍をもっぱら刊行しており、言語研究と関係して、言語政策、言語教育に関する研究書をも刊行している。それぞれ得意な分野があり、そこでは複数の出版社が競い合っている。
 学術出版というものはどういう営みかということを概観するために、学術書という「商品」の市場規模を説明する。学術書の大きさは、たいてい、A5判上製で、印刷部数は少ない。ひつじ書房では600部から800部の間である。日本語学というジャンルに近いジャンルで日本文学というジャンルがあるが、こちらはもう少し部数が少なくて、300部〜400部という発行部数であると聞いたことがある。こういう数字は、ほとんど公開されていないが、数少ない公開している歴史・民俗学系出版社の岩田書院によると「岩田書院では日本史系の初版部数の標準が500部、民俗系が400部でしたが、今年になってから、それぞれ400部・300部に減らしました。」とのことである(注2)
 600部で8000円というひつじ書房で標準的なもので市場規模を考えてみる。600部×8000円であるから、本体価格の総定価は、480万円ということになる。ひつじ書房の場合は、出版業界では取次と呼ばれる問屋に卸す掛け値が67%であるので、卸値の総額は約320万円である。研究書ではなく、一般書に近い存在である新書と比較してみる。新書は、1冊700円という値段で、ある老舗の出版社は2万部以上だけれども、そうではないところでも1万部は刷っているそうだ。1万部で考えると700万円になる。先程申し上げた学術書の経済的な規模は、3分の2ということになる。もう一つ重要なことは販売速度である。刊行した部数がどのくらいの時期で売れるのかということだが、新書の場合、数か月といわれている。それに比して、学術書は2年で売れ切れたら、幸運だ。2年という期間は3か月の8倍になる。経済的な規模が3分の2で期間が8倍ということは、1か月の経済的な規模としては、12分の1である。経済的な規模が小さいから経営は困難を究める。
 一方では規模が小さいということは、新たな可能性の発掘につながる発端を生み出すことでもある。規模の小さな言論・発見を世の中に出す役割が出版にはあり、学術出版は、大きな、多数を占める主張を広めるのではなく、ささやかな小さな発端、新しい考えを世の中に送り出すことに意味がある。報告書にあるように、それが対話を生み出すということだ。たとえば、マルクスの資本論やフーコーの書籍でも初版は少部数だったらしい(このことが載っている文献を見つけられましたらお教え下さい)。決して、大きな部数ではないが、貴重な新しい考えを後押しするというところに出版の重要かつ貴重な点がある。部数の多くない書籍を何とか工夫して採算を採れるようにして、刊行していくということが学術出版社の重要な仕事であり、責任なのだ。
 今の時代、それならば、インターネットで発信すればいいのではないかと思われるかもしれない。「ネットでの発信なら、可能性としては数万、数十万、数百万という数字が可能ではないのか。少部数の物に印刷費、紙代、製本代、編集費をかけるのは無意味なコストではないか」と。公開ということと、ネットに書いておいておくことは同じではないということに気付いていない考えだ。自分のブログに書いただけで影響力を与えうるかどうか、少し考えればわかるだろう。ネット社会はさえずり機械のように声を発しているかも知れないが、だれかの声を聞こうとはしない。本人以外の人(外山滋比古の『新エディターシップ』でいうところのミドルマンと呼ぶべき人間)が、応援することが不可欠だ。学術出版の「出版」はそういうミドルマン(ミドルパーソンと呼ぶべきか)の機能を持っているのではないだろうか。あるジャンルにそのジャンルに詳しい出版社があり、編集者がいるということは、その研究者以外の人々の代理人として、他者の視点から、その研究を見守っている人がいるということである。当該研究分野に関心を持ちつつ専門家ではないという種類の人々がいることによって、その研究は、その内輪の世界から外に向かって伝播し、対話が起こる。それは、本人が、自分の場所に書いて置いておくということとは違って、そこに媒介者としての編集者がいて他ジャンルとの対話、市民との対話ということが起こりうるということがある。

 有力な支援手段として

 先の報告書で人文学、社会科学の学問のテーマはまさに「「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道」ということであった。テーマが、対話であり実証であるのなら、出版という機能はまさにそのモノズバリとしてリンクする。(アカデミズムの評価も含めた)「社会による評価」という機能を果たすことが書籍の機能であり、そういう書籍を世に出していくことが出版社・編集の役割である。時によっては、まだ、アカデミズムが評価していない考えを世に知らせるということもある。その経済的な規模は小さく、持続的に書籍を作り出していくということには困難が伴う。いわば、新書の12分の1の経済的な規模の小さい活動が「社会による」評価を作り出す機能を充実させていく。そのための全てではないが一つの有力な支援手段が、科研費出版助成だ。様々なテーマが、議論され、研究されている現代、市民と学者、学者同士さえもが対話をするためには、ミドルな人々、ミドルな媒介がいっそう重要になってくるはずだ。もちろん、インターネットだって、ウィキペディアだって、使えるものはどんどん活用し、こころを込めて学術書を作っていく、というのが学術出版である。そのための重要な元手の一つが、研究成果公開促進費である。
(ひつじ書房)

■注
(1)「人文学及び社会科学の振興について(報告)「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道」科学技術・学術審議会学術分科会(2009),
 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm [→本文へ戻る]
(2)「裏だより」No.515(2008.06)岩田書院 [→本文へ戻る]



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