日本学士院賞と科研費出版助成

安藤隆穂



 はじめに・科研費出版助成と基礎研究

 このたび平成21年度(第99回)日本学士院賞をいただくことができた。受賞作品となった『フランス自由主義の成立――公共圏の思想史』(名古屋大学出版会、2007年)は、日本学術振興会の2006年度科学研究費補助金研究成果公開促進費「学術図書」(以下、科研費出版助成と呼ぶ)の交付を受けている。地味な専門研究であり、科研費出版助成の制度がなければ出版は困難であったろう。
 理系文系を問わず、専門研究、特に基礎研究は、直接的な有用性を明示できない場合が多い。未知の領域への大胆な挑戦があればあるほど、それはかえって有用性との結びつきを見えなくする。人文社会科学分野では、基礎研究の主題は、長い歴史の物差しで見てはじめて社会的意義が決まるものであって、ほとんどの場合、現状で役立つようには見えない。むしろ市場的価値のないものをこそ、出版し公表しておくことが必要なのである。私自身、今回の「授賞審査要旨」の中で、「日本からこそ発信できる独創性をもつ」との評価をいただいているが、その「独創性」を市場価値に結びつけるのは、不可能に近かった。科研費出版助成制度の恩恵で、私は今回の受賞に至る基礎研究を続けてこられたといっても過言ではない。

 科研費出版助成と私の研究の歩み

 私の場合、受賞作品以前にも『フランス啓蒙思想の展開』(名古屋大学出版会、1989年)と『フランス革命と公共性』(編著、同、2003年)について科研費出版助成を受けている。前者は幸いにも、若手研究者の問題提起的成果として経済学史学会、社会思想史学会、日本一八世紀学会など複数の学会で高い評価を受けたのみならず、通例私が関与することの全くない分野からもコメントをいただいた。私の研究の見直しと再出発にとって計り知れない恩恵が、望外に広範囲にわたってもたらされた。忘れ難い思い出は、病院勤務の医師から、私の著書でわずかに言及した思想家カバニスの議論について、現代医療にとってもアクチュアリティのあるもので参考になるとお手紙をいただいたことである。科研費出版助成を受ける著作は、一般に学界レベルで論議を呼び起こし学問の発展に寄与する場合が多いと考えられるが、社会への受容という面でも、直接的有用性にとらわれないからこそ可能になる質の高い知的刺激をもたらしているのではなかろうか。
 次の『フランス革命と公共性』も、人文系と社会科学系の研究者の共同作業の成果を編集したものであり、しかも学説としては相当異なる立場の諸論文を奇跡的に一冊にまとめた著作として好評をもって迎えられた。どの論文も、各分野の地味な基礎研究であって、単独著作として刊行することは難しいものばかりであった。また、論文相互の対立点をあえてきれいにまとめず、むしろ対立の火花をそのままに残そうとしたが、それは、統一性のなさという印象にもつながりかねないものであった。このような対立の学術的意味は、科研費出版助成制度におけるような専門的審査を経てこそ評価されるものであって、一般には、市場価値の点から見ても、出版になじみにくいだろう。その意味で本書も、出版助成の恩恵によって学術的貢献を果たすに至った好例に数えることができよう。

 科研費出版助成の意義

 学術的に高い評価を受ける研究成果は、長い基礎研究の積み重ねの過程を経ている。その基礎研究は、将来的価値が不明であることが常であって、効用性の観点からは無価値とされ、出版の機会もなかなか訪れない。科研費出版助成の制度は、埋もれてしまいかねないこのような貴重な学術研究に公表の機会を提供し、学問の発展とその社会への受容に貢献してきたのである。
 しかし、科研費出版助成の意義はこれにとどまらない。さらに重要なことは、科研費出版助成が、高い質の学術出版事業を可能とし、これを通して著者と出版社双方の成長を促すことにある。
 著者と出版社は、作品の計画と原稿の執筆段階から、綿密に連絡を取り、出版に向けての共同作業に入る。それが、学術書の場合、一般の出版に比べて早い段階から行われ、科研費出版助成の申請書類提出の数年前に始まることも多い。著書の構成と編集について、出版社側の担当者(編集者)からの助言や批判を受けることによって、著者は、単独では得られない次元で思考することができる。社会の需要をよく知る編集者の鋭い指摘によって、最終段階で研究の飛躍をなし得た経験は、多かれ少なかれ誰もが持つであろう。とりわけ科研費出版助成の制度を活用する場合には、市場的価値による拘束から相対的に自由になるだけ、著者と編集者は、学術的価値の創造に専心することができる。科研費出版助成はこのように、良質の研究を支えるだけでなく、優れた出版社を育てているのである。
 著者と編集者との共同作業について、私の経験で見ると、とりわけ申請に先立つ出版計画と原稿執筆の時期が有意義であると思う。私はこれまで、多分野にわたって出版を手掛けた優れた編集者に恵まれた。彼らは、著者と同じ分野についてはもちろん、他の分野についても研究動向に感度の良いアンテナを張りめぐらしていた。彼らの意見によって、著者自身の研究を相対化し、研究の世界での立ち位置を確認することや、専門研究者仲間を超えたより普遍的な読者を意識して、著書の編成を厳しい吟味にかけることができた。出版助成決定後ももちろん、緊迫した共同作業は行われる。私の場合には、校正の段階でも編集者から、ジャーゴンの迂闊な使用を鋭く指摘され、論理運びについて反省させられた経験を特筆しておきたい。人文社会科学系の著作の場合、文体は思想を表す。最後に文体が定着に向かう時、私の例のように、編集者の助言から大きな恩恵を受けることが多いのではなかろうか。その機会は、共同作業の時間も密度も濃い科研費助成出版の場合、通例とは比べものにならないほど頻繁に訪れるのである。
 科研費出版助成を、狭い意味での出版支援とみなすべきではない。人文社会科学の分野で基礎研究を続けていく場合に、出版時の編集者との共同作業には、自然科学系の学問の基礎的実験の作業に近い要素が入っていると見ることができる。将来性のある研究の発掘を目指す編集者の前で、著作を繰り返し練り直す著者の作業は、自然科学でいえば、基礎実験を繰り返すのに近い過程であるように思う。またそれは、編集者を仲立ちとする、著者の研究と社会との結びあいを問う作業でもある。つまり、科研費出版助成制度は、人文社会科学系の研究者にとって、自然科学の基礎実験を公的支援する制度に近い意味も持つのである。

 日本学士院賞と科研費出版助成

 日本学士院賞を受賞した人文社会科学系の研究のうち、3分の1以上が科研費出版助成の交付を受けているという。これは、受賞研究の多くが、なかなか評価の下しがたい地味な基礎研究を長い年月にわたって積み重ねたものだからである。簡単に評価の確定し得ない基礎研究を、効用性の魅力を退けて忍耐強く続け、かつ公表の機会をうるには、科研費出版助成の支援が不可欠である。
 こうした研究にとって、インターネットの発達によっても書物の出版の重要性はいささかも減じない。人文社会科学系の研究分野では、個別論文やインターネットによる情報を通じてよりも、一つの大きなまとまりをもつ著作=モニュメントによる研究交流がいっそう重要である。それどころか、研究が細分化し、細かい情報がすさまじい速度で飛び交うインターネットの時代に入り、モニュメントによって研究の動向を大局的地点に立って規定することの意義は、かえって増大している。
 また、日本語による書物の出版も、学術研究の共通語が英語だと言わんばかりのグローバル化の波をかぶる中で、実はよりいっそう有意義となるだろう。私の研究を例に挙げれば、先にふれたように「日本からこそ発信できる独創性を持つ」との評価を得た。私はその真意を、フランス語による思考のみによっては困難なフランス思想読解を行ったという意味に受け止めている。日本語による思考と表現によってこそ解読できる、フランスの思想の性格と意義がある。逆にそれは、フランス本国ではかえって困難な研究なのである。フランス思想研究を国際水準で見る場合にも、日本語で本を出版するという過程を経てこそ可能となる学術国際貢献があることを見落としてはならないと思う。
 これは、人文社会科学の分野においては、外国を対象とする場合であっても、日本語による書物の出版が、自然科学分野での実験による理論仮説の検証作業に類似した側面を持つという、前に述べた特徴の実証でもあるだろう。自然科学の発展が、忍耐強い実験の積み重ね抜きにあり得ないように、人文社会科学の発展は、母国語による書物の創造と出版を必要とする。自然科学における実験に直接的な有用性を求められないように、市場価値に直接なじまない人文社会科学の基礎研究は、科研費出版助成のような制度の充実を必要としているのである。

 科研費出版助成制度の発展を願う

 私の研究生活を振り返る時、大きな恩恵を得た書物には、科研費出版助成を受けたものが圧倒的に多い。大学の長い歴史を持ち、学位論文の公表の制度も充実している欧米に比べ、日本では、学術研究公表の環境はいまだ整備されていない。科学費出版助成の制度は、日本の基礎学術研究を維持し発展させる、いわば命綱であったのである。
 私自身、自らの著作が、そうした長期的かつ大局的次元で、学界の発展に貢献できることを望み、また、幅広い読者を経て、目先の有用性を超えたより深い次元で、社会に対しても知的貢献を果たすことができればと考えている。
 偶然とはいえ、今回日本学士院賞を受賞した『フランス自由主義の成立』は、副題に「公共圏の思想史」とあるように、近代における自由な社会を実現する基礎が自由な公共圏の充実にあり、かつその生命線が出版の文化にあることを論じたものである。一例を挙げれば、コンドルセはフランス革命の時代に文化資本の再配分の政策として、古今の政治経済学の古典を要約解説した叢書として『公人叢書』(1790−92年)を刊行した。科研費出版助成によって優れた基礎研究の成果が出版されてきたことは、この『公人叢書』の企画を思わせる。日本の学問の力を維持し、かつこれを社会の共有財とするうえで、科研費出版助成をぜひとも長期的に充実発展させていただきたい。
(名古屋大学教授)



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