出版文化国際交流会の活動

江草忠敬



 国際図書展日本ブースの一般的イメージ

 幼稚園児ほどの女の子を伴った外国人の母子が楽しげに日本の児童書をみている、あるいは若いカップルが仲良く日本の写真集をめくっている。その傍らでは研究者らしき人が日本の特定のテーマの図書を熱心に見入っている、また出版関係者と覚しき人が日本の出版情報資料を手にとっている。いずれも外務省の協力を得て独立行政法人国際交流基金と本会が共催で参加する国際図書展の日本ブースにおいて、日本からの派遣専門家が目にする一般的な情景である。年間にして十数件の参加であるが、2008年度実績を開催会期順に記すとブエノスアイレス、ブダペスト、ボゴタ、プラハ、ワルシャワ、テヘラン、ソウル、サンパウロ、フランクフルト、ベオグラード、モスクワ、ビリニュスの12件である(このうち、専門家派遣を実施したのは6件)。
 ここから出版物を通した様々な出会いと交流が始まる。本会にとって原点ともいえる場である。

 出版文化国際交流会の成立と生い立ち

 本会は1953年(昭和28年)10月29日にアジア文化交流出版会として発足した。初代会長に平凡社の下中弥三郎氏を戴き、事務局は神田錦町のオーム社に間借りしてのスタートだった。当時、第二次世界大戦後の混乱期を脱しつつあるとはいえ、日本の出版物を海外に紹介するという発想は荒唐無稽ともいえるものであった。
 3年後の1956年、アジア文化交流出版会を発展的に解散し、三笠宮崇仁親王殿下を名誉会長にお迎えし、現在の名称組織である出版文化国際交流会が設立された。
 1960年、第12回フランクフルト・ブックフェアに30名の視察団を編成した。この視察が大いなる刺激となり、翌1961年のフランクフルト・ブックフェア出展参加につながる。当時も今も世界最大規模を誇るこのブックフェアの国際舞台に進出していったという意味では日本出版界が国際化の一歩を踏み出したといえる。爾来、フランクフルト・ブックフェアへの参加は毎年続き、1990年にはテーマ国「日本」として予算規模、十数億円を投じた日本文化紹介の様々なイベントが繰り広げられた。2001年からは出版三団体(大学出版部協会、自然科学書協会、出版梓会)の学術書、専門書を紹介するコーナーを設け、好評を博している。
 1970年代から1980年代にかけて、一種の流行現象のように世界の多くの都市で国際図書展が誕生し、必然的に在外公館、あるいは在日各国大使館から日本への参加要請が増加した。この状況を受け、1987年外務省支援の下、国際交流基金と本会による共同プロジェクトとして「国際図書展参加事業」が予算化され、スタートした。これにより世界の主要な国際図書展への計画的、組織的な参加が可能となった。このプロジェクトは本会のみならず、日本の出版界にとっても非常に意義あるものとなっている。
 2003年には創立50周年を迎え、名誉会長三笠宮殿下ご夫妻のご臨席をいただき、東海大学校友会館にて盛大な記念パーティが開催された。

 出版文化国際交流会の活動について

 本会の定款では、「この法人は、日本と外国との相互理解を深めかつ親善を増進するに役立つ総ての出版物の交流を計り我が国出版界の向上を期することを以って目的とする」と謳っている。具体的な活動としては国際図書展への参加が中心となる。現在、世界各地で開催される国際図書展は年間にして90件を超えるが、本会では創立以来、延べ400件ほどの国際図書展に参加し、日本の出版文化の紹介に努めてきた。ここで、伝えられるエピソードを交えながら活動の一端を紹介したい。

【フランクフルト・ブックフェア】
 初参加となった1961年の第13回フランクフルト・ブックフェアでは日本の参加が各国出版界の注目を浴び、現地のマスコミ関係者が連日のように日本会場を訪れ、新聞・ラジオで紹介された。しかし、その中には「日本で印刷ができるのか」、「日本で本が作れるのか」というような、現在では想像できないような質問もあった。当時は1ドルが360円の固定相場制であり、しかも外貨持ち出し制限が大変厳しく、本会責任者が大蔵省(現、財務省)に何度も通って交渉したという逸話が残されている。実際、2回目の出展参加となった第14回フランクフルト・ブックフエア(1962年)の視察団は27名の参加記録となっているが、これは30名を越える希望者があったにもかかわらず、外貨予算の獲得が困難なため、辞退を要請した結果である。また3回目の参加となった第15回フランクフルト・ブックフェア(1963年)の前夜祭において、野間省一会長が全世界の出版人を代表して挨拶を述べた。当時、いかに日本の参加が注目を浴びたかの証左といえる。
 フランクフルト・ブックフェアは世界から1万人を超えるプレス関係者が集まり、商取引の面だけでなく文化広報の場としてもその重要性は無視できない。1990年の「日本年」をきっかけとして国際交流基金からの助成もあり、日本インフォメーション・センターは格段に充実した。外国出展者・来場者からの各種問い合わせへの応接も含め、同センターの果たす役割は大きい。

【その他の国際図書展】
 国際交流基金と本会による共同プロジェクトが始まる以前の国際図書展参加は、フランクフルトを除くと実に涙ぐましい努力の上になりたっていた。本会が会員社の協力を得て出展図書を提供し、外務省がブース代を含む現地経費、国際交流基金が送料を負担という形で参加した国際図書展はひとつやふたつではない。今でこそ児童書のフェアとしてゆるぎない地位を占めているボローニャ国際児童図書展にしても、その誕生初期は在京のイタリア文化会館より再三の参加要請があり、ブース代を無料提供の条件で出展した経緯がある。
 現在では、冒頭に挙げたような国際図書展に出展・参加しているが、いずこの図書展でも日本のブースは人気がある。近年では「日本」をテーマ国、ゲスト国として開催を希望する図書展が増えている。

【外国図書の展示会】
 本会ではさまざまな国々で「日本図書展」を開催してきたが、国内でも単独の国の、あるいはテーマをもった図書展を数多く実施している。その中で感銘を受けたエピソードがある。「ドイツ新刊図書展」を1969年から1970年にかけ、東京を皮切りに全国17都市で開催した。この時、ドイツからは厚さ2センチほどの立派な出展図書カタログが2万部送られてきた。これを前にして、「こんなに大量な部数、とても配布しきれない」とドイツ側責任者に伝えたところ、「どんなに小さなお子さんでもよいから差し上げてください。このカタログがきっかけとなって、その子たちが将来ドイツ語、ドイツの文化に親しみを持つかもしれません」との答えが返ってきた。これを受け、カタログは総て配布された。

【三笠宮文庫】
 三笠宮文庫の原点は、1883年アレクサンドル3世に明治天皇のご名代として謁見された有栖川宮熾仁親王殿下(ありすがわのみやたるひと)が、当時すでにペテルブルグ大学で日本語講座が開かれていることに感銘をうけ、ご自身の蔵書を同大学へ寄贈・設立された有栖川文庫にある。第二次世界大戦中、レニングラード大学のオリガ・ペトロワ先生が有栖川文庫を戦火から身命を賭して守られた。これを知って三笠宮殿下は大変感動され、1977年にソ連科学アカデミー図書館に出版界の協力を得て381冊の図書を寄贈されたことにより、三笠宮文庫が誕生した。本会では2003年の創立50周年記念として2回目の寄贈を実施したが、さらに同文庫の拡充をはかるため、フランクフルト・ブックフェアに出展する前述の三団体の図書を2007年より3年間にわたって寄贈することにしている。

 今後に向けて「ゆるやかなネットワークづくり」

 アメリカのサブプライム・ローン問題に端を発した世界金融危機は多くの国々に深刻な影響を与えているが、一方において国境を越えて情報の伝わる速度は高度情報化社会の現実を垣間見させた。
 しかしながら文化の交流となると、ことはそれほど容易ではない。特に出版物の交流では地道な永い時間と労力が必要とされる。ひとつの翻訳作品が出来上がるには版権仲介を業とする人を始めとして編集者、翻訳者等、多くの人が関わり形を成していく。結果として村上春樹やよしもとばななに代表される作家の作品は、私どもにあまり馴染みのない言語、例えば話者100万ともいわれるバスク語を含めて数十カ国語で出版され、愛読されている。コミックの『ドラえもん』然りである。出版物は時空を越えて多くの人に感銘を与え、自ずと文化を伝える。まさに先達のいう「本は沈黙の外交官」たる所以である。
 本会は今後も国際図書展への参加を中心に活動を続けていくが、これには会員社の支援はもちろんのこと、活動の性格上、外務省、国際交流基金のご協力を得ることは不可欠である。今後は「ゆるやかなネットワークづくり」をひとつのキーワードとして他団体との連携をさらに強めていきたい。
(社団法人出版文化国際交流会会長)



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