書店員から見た本の価格

田川 純弘



 今回、書籍の価格について書くことになった。現場の一書店員にすぎず、紙代や著作権等、価格決定に対する基本的知識は皆無である。そういった実務的なことよりも、書店の現場で書籍を販売する立場から、あらためて読者の視点で書籍の値段について考えてみた。
 もちろんその本が高いと思えば読者は買わないわけで、裏を返せばその本が売れるのは金額に見合う価値(値打ち)があると読者が思うからだ。ここでは、日々のお客様との会話を踏まえ、自分自身の書籍購入時の判断基準に置き換えて、専門書購入時の段階を考えてみたい。

 1 本の値打ち

 もちろん、生活必需品であれば、「卵100円! お1人様1パック限り」のように、広告を見て安ければ行列をしてでも買うだろう。ただし「本」特に今回対象となるような専門書は生活必需品とは基本的に違う。
 本といっても安ければ良いというものもあり、あちこちでバーゲンブックフェアを行っているが、出回る書籍の性質上、専門書に限って言えば、目指したものに出会うことは、ほとんどない。それでもそこかしこで時折フェアを見かけるのだから、ある程度需要があるのだろう。ただ確実に言えるのは、専門書の場合、たとえ同ジャンルであっても、おなじ「本」というだけでは、代わりにはならない。

 2 本の内容の値打ち

 我々の間で通称「500円本」と呼ばれるものがある。最初はコンビニ主体で販売されていたが、最近は書店でもかなり売れているものもあるようである。例えば『○○○な日本史』というような書籍である。確かに日本史の本には違いない。今風のフレーズで言えば、「ざっくりつかむ」だけならば十分であろう。ただ、細かい点まで正確かと言われれば、決してそうとばかりは言えない。ちなみに個人的な判断基準からすれば、専門書主体のジュンク堂書店難波店人文書としては、棚は一定量以上増やすつもりはないし、値段を考慮して回転率が平均の4倍以下ならカットの対象と考えている。
 内容が同じテーマでも、「浅さ・深さ」で代わりにならない場合がある。

 3 その本の対象分野(内容)での値打ち

 近年、何かにつけて話題となる「スピリチュアル」だが、2008年5月に『世界のスピリチュアルスポット』(ランダムハウス講談社・3675円)という写真集が刊行された。他のジュンク堂書店ではいわゆる「精神世界」の棚に置いているようだが、このジャンルは安価な書籍が多数出版されている領域なので、この書籍は苦戦しているところが多い。ただ店頭で中を見ればおわかりになるが、宗教施設の世界遺産を記録した非常にすぐれた写真が多数載っている。難波店ではこれを世界遺産のコーナーに置いてみたところ、世界遺産の写真集はあまりないためか、よく売れた。その商品に見合う値打ちが読者に的確に提示でき、読者が納得すれば売れるのである。

 4 その本単体としての「決定的な」値打ち

 個人的な趣味だが、たまたま中世荘園の遺跡について参考資料を探していたことがある。当然、はじめは概説書の注あるいは参考図書をチェックして基本文献を探していくのだが、管見の限りでは、黒田俊雄の『寺社勢力』(岩波新書)が必ず引かれてくる。同じ著者の『王法と仏法』(法蔵館)なら基本書として家の本棚からすっと出てくるし、著作集(法蔵館)は数冊持っているので、この本はなんとなくいらないような気がして買っていなかった。この前タイミングよく復刊されたのですぐ買うことができたが、この論文を踏まえていなければ自分の論が成り立つがどうかもわからず、自分の勉強が頓挫してしまいとても困るところがあった(といっても個人の習作なので締め切りも何もないのだが)。同じ著者の論文であっても、論点や結論が異なる以上、それぞれが名論文だからといってまったく「代り」にはならない。特に史学や国文学といった「積み上げる」学問では、先攻研究を押さえておかなければ話しが始まらない。これが専門書を扱う上での「キモ」だと思う。「この論文が入っているから買う」というのは、時々聞く話だ。また、値段に関係なく手早く手元に欲しいというだけならば、1冊あたり一定の手数料を負担すれば、このご時勢、ネットを利用すれば3日程度で手に入る。わざわざ自分で時間をとって出かけていかなくても、指定すれば夜であっても向こうから配達されてくる。それでもなぜ書店に足を運ぶのかという理由の1つでもある。
 先述の『寺社勢力』は新書なので、数百円。この値段であれば、とりあえず買ってからじっくり読むことも十分可能だが、これが単行本であれば金額的にそうはいかない場合もある。その本が、本当に自分が欲しい本かどうか、(すでに知っている場合はともかく)手にとってみるまでわからないということだ。

 5 読者にとっての値打ち

 これも特殊な例だろうが、自分の経験を紹介する。読む時間もないのに、専門書を今でも買ってしまうのだが、この間も、20数年前に大学で説話文学を勉強するきっかけの1つともなった池上洵一の、最近編まれた著作集の第4巻『説話とその周辺』(和泉書院15750円)を買った。たちの悪い読者なので後ろから読み出すと、なんと昔聞くことのできなかった氏の最終講義が最後に採録されているではないか。思わずその日の晩、その本を抱いて寝てしまった(本当に)。「プライスレス」というCMのフレーズが頭に浮かんできた。
 本当に自分が欲しいと思ったら、(それは強迫観念かもしれないが)値段は関係ない、ということだ。
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 著者の思いどおりの本が即「売り物」として読者にアピールするものとは限らないがゆえに、読者に提示しやすくするための行為としての編集作業が重要であるとも思う。いま風に言えば、その本を購入させるという「ゴールを演出する」行為であるだろうし、その本の値打ちを決定付ける行為でもあると思う。
 したがって、厳しい見方をすれば、編集の方々が1〜5のどの段階の読者を想定して作成した本だとしても、まず読者のキャパシティがあるだろうし、それが売れなければ現在の世情に対応しているとは言えないだろう。既刊書籍で、2〜3年経ったらまったく動かないという話を営業の方から時々聞くことがある。一般的な話にしておくが、そのタイトルを見て手に取った読者がその本を買う前に、(1〜5の各段階に照らして)どの段階かで「高い」と思ってしまった例もあるのではないかと思う反面、書店の側でも3のようにその本を必要とする読者へきちんとその書籍を提示できているかというと、自分自身も赤面する事例は多数ある。お客様が気付かなくて売り逃したケースは、ゴマンとあるだろう。
 もちろん読者の側の変質は確実にある。昨今の実利主義の世の中、大学のテキストでも売れないご時勢だと外商部の知人からは聞いているし、手を変え品を変え、入門書や概説書ばかりが刊行されるような現状になると、研究分野の深み自体がなくなりそうな気がしてならない。一方で、研究書として前述の4で挙げたような基本書であれば、その研究分野が活発である限り、需要はあり続けるだろうとも思う。
 そもそも専門書が高いという以前に、専門書の価格はあまりあがっていない。例えば年次刊行の『説話論集』(清文堂)であれば、第1集は購入時の1991年発行で7670円、最新の17集は2008年発行で9600円である。書店として論集が売りにくいのは、ズバリそのテーマ性の拡散の度合いによることが多いが、この論集が永続しているのは、テーマ性とレベルの維持がなされているからでもあろう。
 それほど値上がりしていないのに高く感じることの一端には、強いて言えば、最近は「待てば文庫になる」という考え方もあげられる。かつては「今買っておかなければ、もし将来その本を読みたくなった時に手に入らずに後悔する」という強迫観念から、その時点では急ぎ必要としない専門書まで買っていたものだ。古典的名著ほど文庫にはならず、現在のように頻繁に復刊もされない状況は、本を買うときにある意味背中を押しもしたのである。
 例えば20年以上前の学生時代には、益田勝実『秘儀の島』(筑摩書房)などはすでに手に入らなくなりかけていた。それが卒業後10年ぐらいにちくま文庫で文庫化された時には信じられない気持ちだったし、最近であれば、益田勝実の主要著作までがちくま学芸文庫で揃う。それも1500円前後で。
 最近では文庫参入も増え、結果として昔のように文庫になったからといって、それが名著であるとかいつまでも残るものとはならなくなってきた。もちろん、専門書でも読みやすく手に入れば読者の裾野が広がるので、歓迎する気持ちはある。
 以上を踏まえて確実に言えるのは、専門書であれば、ただ読者が手に取りやすいように極力値段を下げたからといって、「安くしたから」その本が売れるとは思わない。冒頭から繰り返し述べてきたように、その本の「値打ち」を問うべきだと、僕は思っている。
 それよりも本の金額に関係なく、厳しい表現をすれば、買って「失敗した」と思う数だけ本に対する思い入れは失われていく。洪水のように書籍が日々発行されていく中で、現在そういった本が多数ありはしまいか。
 素人が具体的な金額設定はまったくわからないまま論を進めてきた。ただ専門書店の現場の意見としては、書籍の価格を決めるということは、当たり前であろうが、その本の「値打ち」を、自信を持って読者に提示するということに尽きる。中身の濃い、かつ手に取りやすい本を日々切に望んでいる。

(ジュンク堂書店難波店副店長)



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