【インタビュー】

イサカ・レポートと日本の学術出版

― 一橋大学・佐藤郁哉教授に聞く ―

山田 秀樹



【解説】 佐藤郁哉氏は、1955年生まれ、シカゴ大学にて社会学博士号(Ph. D)取得後、現在、一橋大学大学院商学研究科教授。主な専攻は、文化社会学である。主要著作として、『暴走族のエスノグラフィー』(新曜社、1984年)、『現代演劇のフィールド・ワーク』(東京大学出版会、1999年、日経・経済図書文化賞受賞)、などがある。近年は「出版」をフィールドとして研究に取り組み、その成果は「ゲートキーパーとしての出版社と編集者」(『一橋ビジネスレビュー 2005 WINTER』)などとして公表されている。さらに、2001年から行ってきたフィールド・ワークの成果は、上智大学・芳賀学教授、早稲田大学・山田真茂留教授との共著として新曜社から刊行が予定されている。
 『大学出版』前号(74号)でも紹介された、大学と大学出版をめぐるアメリカの現状と展望を示した「イサカ・レポート」を受け、これをどのように理解すべきかを始まりとしてインタビューは行われた。今後の学術出版を考えていくうえで、示唆に富んだ論点が散りばめられていると思う。読者の皆様の参考になれば幸いである。
(聞き手・構成 東京大学出版会・山田秀樹)

 イサカ・レポートを読む

―――イサカ・レポートをどのように読まれましたか? あるいは『大学出版』74号掲載の山本論文(「アメリカ型大学出版モデルのゆくえ」)をどのように読まれましたか?

 最初に前提とお断りになりますが、僕は山本さんやイサカ・レポートを書いた人たちとは少し違って、どちらかと言えば、読者あるいは図書館のユーザー、また特に社会科学の研究者であり、大学教員、そして時には著者でもあるという立場からお話ししたいと思います。
 一つ大きく感じたのは、山本さんも指摘されていることですが、レポートには、かなり技術決定論的なところがみられるということです。僕としては、デジタル出版が情報発信のテクノロジーとして大きくクローズアップされる以前から、もっと制度的なところで、アメリカ型の大学出版部の存在意義というものが問われていたという印象を持っています。イサカ・レポート自体、その2年前にジョン・トンプソンが著したBooks in the Degital Ageという本をふまえていますが、トンプソンのほうでは制度的な変化というものをわりと丁寧に追っているところがあるので、両方を合わせて読むと面白いと思います。
 もう一つ、大学出版部の変化について知る上では、1979年に出されたScholarly Communication: The Report of the National Enquiryという報告書を、もう一度読み返してみる必要があるかも知れません。この報告書をみると、当時は、大学出版部の存在意義それ自体は所与の前提とした上で、その経営危機が問題になっていたようです。つまり、「存在意義のあるこの組織をどのようにして維持していけば良いのか」ということが議論の中心だったと思うのですが、それが、2007年のイサカ・レポートになると、「そもそも存在意義があるのか」という根底的な問いかけがなされているように思えて、僕にとってはある意味ショックでした。
 その点に関してイサカ・レポートで気になったのは、「ミッション」という言葉が何度も出てくるということです。数えてみたら32回も出ています。ただ、レポートの中で、その「ミッション」の定義が必ずしも明らかにされているわけではありません。どうやら、大学出版部が担うべきミッション、あるいはまた大学自体が負うべきミッション、というのが揺らいでいるし、また模索されてもいる。ある時期、それこそ70年代のはじめくらいまで安定していたのが、文教予算の削減や制度的根拠に関する疑問が提出されたりして揺らいでいったのではないか。今それを、根本から考え直すべき段階に来ているようですね。また、一体誰がそのミッションを規定すべきなのかという点も揺らいでいるという印象がありますね。

―――イサカ・レポートによると、大学出版部は大学と組むことによって資金を大学から引き出してくる、そこに生き残る活路があるんじゃないか、ということですよね。逆に言いますと、そうせざるを得ないほど資金的にも追い込まれている。その危機的状況はデジタル化にどの程度起因するものなのか、そのあたりはまだ判然とはしないところがあると思いますが、デジタル化社会の中で学術出版をどのように行い、あるいは知的なソフトをどのような形で発信していくか、ということは今後追求すべき課題だと思います。そのあたりはいかがでしょうか?

 大学出版部には編集のノウハウ、出す本にお墨付きを与えられるだけの「のれん」の重み、原稿のスクリーニングに関するノウハウがあったし、独自のビジネス・センス、それから「人脈資産」みたいなものがある。でも、お金がない。図書館には膨大な資金があるし、ITの蓄積もある。だから、両方組めばいいんじゃないか。とまあ、言われてみればそうだけど、そんなに簡単にいくのかな、というような印象があります。しかも、そのデジタル化して生き残る知の内容自体がどういうものなのか、という点も問われるべきかと思います。トンプソンは、大学における知の中身について、人文・社会科学系、あるいはリベラル・アーツ的な知というものの比重が、大学社会の中でかなり小さくなっているというような話をしています。そのあたりのことも考えなきゃいけないと思っています。
 そこで、人文・社会科学系の出版を得意にしてきた米国の大学出版部とは何か、ということが問われてくるのでしょうね。さきほど言った大学出版部のミッションをめぐる問いでもあるのですが、レポートでは、学術書とは何か? 大学出版部が刊行すべき学術書とは何か? さらに大学における知、すなわち大学自体のミッションとは何か? これらの問いが混在しているように思えます。レポートは、学術書の位置づけ、なかでも紙の本の形をとった学術書の位置づけが変化してきていることを訴え、それがひいては大学出版部とは何か、というところの問いに結びついていくというように読めるのですが、僕としては、デジタル化云々にとどまらない、もっと深い構造的な変化があったように思うのです。

―――「もっと深い構造的な変化」とは何でしょうか?

 大学出版部の位置づけに関わる変化なのですが、僕がショックを受けたのは、イサカ・レポートには、「大学当局者にとって大学出版部の優先順位は、それほど高いものではなくなっている」と繰り返し書いてあることです。それが先ほどのScholarly Communicationという79年の本だと、大学出版部それ自体については学内的に高い評価が与えられているとしている。もし、この二つの現状認識がそれぞれの時点で正確なものだったとしたら、この30年の間に評価がガラッと変わったところがあるのかも知れません。大学出版部自体もすごく変化していて、一般書的な本が3割以上の割合を占めているとか、あるいは教科書的なものを出すとか、小説を出していくとか、背に腹は変えられないというわけで、資金難だからミッションと言われたところからは外れたところにも手を出すようになって、何とか組織維持はできるけれども、ミッションが見えにくくなってきたところも多いのではないでしょうか。
 大学出版部の刊行ラインナップが多様化せざるを得なかったことについては、大学自体の、社会の中での役割が変化していったことも大きいと思います。たとえば、研究機関として、高等教育機関としての大学が、リベラル・アーツ的なものから、より実践的な知のほうにシフトしているという点が大きいのかも知れません。
 その構造的な変化に見舞われて大学出版部が追い詰められていった。いままでは、「紙の本」として、細切れの情報ではなく、一つにまとまったものを最初から最後まで読むのが大前提である、人文・社会科学系のモノグラフを出すということが、アメリカの大学出版部の存在意義の一つだったわけです。しかも、それは研究図書館などにある程度高く売れるものでもあった。ハード・カバーだと3倍とか4倍しますよね。トンプソンは、出版部はある時期からハード・カバーとソフト・カバー両方出すことをやり始め、その結果図書館がソフト・カバーを買うようになってしまったと言っていますが、これは戦略の読み違えと言えるかもしれません。社会における大学自体の位置づけの変化、それから大学内での配分の比重の置き方の変化、さらにそれぞれのプレーヤーが取った戦略の読み違えもあり、大学出版部の経営が苦しくなってきた。
 もちろんすべての大学出版部に当てはまるわけではありませんが、中堅以下のところがそういう流れのなかに飲み込まれてしまう可能性はあるような気がします。
 そのあたりも、僕が言う「構造的な変化」です。デジタル化の影響は、それに更に付加する形で効いてきたのかな、と。でも、ジャーナルはわりと細分化された情報として変化に動かされやすいでしょうが、それに対して、一冊ごとに「作品世界」みたいな性格があるモノグラフというのはなかなか動かせない。僕などはまさに「紙」で育った人間ですから、電子化は確かに便利ですが本当に良いことなのかな、と思います。紙というのはある意味では本当に便利ですし、やっぱり「紙の本」で最初から最後まで読むという作業は、どうしても必要だと思っています。

―――イサカ・レポートが日本の学術出版に示唆するものはあるのでしょうか? それとも、別の国の事例として分けて考えた方が良いのでしょうか?

 それほど急激にアメリカのようにはならないと思います。幾つかに分けて考える必要があると思うのです。学術出版という世界の中でどういう変化が起きるかという話と、その中でも特に大学出版というサブ・セクターの中で何が起こるのか、という話と。アメリカの大学出版部が危機感を持っているのは、電子ジャーナルが図書館予算を大幅に食っているだけでなく、非営利という前提でやってきたところにイサカ・レポートで指摘されたような現象が出てくる。例えば大学図書館が持っている巨大な予算でリポジトリを発信するなど、無料サーヴィスが行われるということです。しかし、日本の場合、出版業界の中で大学出版セクターとほかのセクターとはそれほど明確には分かれていないですよね。たとえば、日本ではいわゆる私企業の学術系出版社も、ある部分では、アメリカでは大学出版部こそが出すような、あまり儲からないけれども学術的価値の高い学術書の出版を手がけてきましたよね。
 一方で、アメリカで大学出版部が担ってきた、ピア・レビューを前提――ある程度は建前かも知れませんが――とした評価機能というか、ゲート・キーピング機能というものを日本の大学出版部というのは必ずしも果たしてきたわけではない、という事実もあると思います。むしろ日本は、編集部ないし編集者主導の企画先行型が主流だったと思います。そういうところは全然違うと思います。また、日本の人文・社会科学系というのは、本という形がまだ強い部分があるので、業績審査のところでは本のほうがジャーナルよりも重きを置く分野がある限りは、生き残っていけるようにも思います。
 むしろ気にかかるのは、モノグラフの「危機」がアメリカでもイギリスでも日本でもあると思うのですが、全然意味が違っているのではないか、ということです。アメリカの場合には、モノグラフが出せなくなってきてテニュアが取りにくくなっている。それは研究者のキャリアにとっての危機であり、大学出版部の存亡の危機にもなっているのですが、日本の場合はそれとは状況がかなり違うと思います。むしろ出版不況だからこそ、専門書出版の世界全体では本が出しやすくなってるということがあるのでは。つまり、尊大な言い方かも知れませんが、ある意味でかなり敷居が下がっていて、質という点で危機的な状況になりつつあるのではないかと思えるのです。
 要するに、質の問題を抜きにして考えれば、日本では「紙」にまだこだわっているということと、ゲートが広くなってるということに関して言えば、まだまだ紙メディアは、見る限りは一応盛況というか、にぎわいは残っていくんじゃないかなという気はしています。だから、アメリカほど急激な変化は起きないように思います(もちろん、図書館予算に対する電子ジャーナルの経費の脅威という点では、共通する部分は多いのですが)。

 日本の出版の現在と未来

―――イサカ・レポートについてはこのぐらいにして、次は先生の研究についてお話しいただけますか? 先生は日本の出版業を研究しているということですが、具体的にはどのようなプロジェクトでしょうか?

 何でこのプロジェクトを始めたのかというと、少し個人的な話になりますが、実は僕、昔編集者志望だったんです。大学を卒業する年に数社を受けて、結局、全部落とされました。ですから、昔あこがれてた、初恋の相手みたいな業界にいま何が起きてるのかということにすごく興味があって、共同研究者と一緒にいろんなところにインタビューに伺うようになったわけです。
 そういうこともあるからこそ、「紙の本」にすごくこだわってるんですけれども、特に興味があるのが、自分自身の仕事に近い学術出版です。これがまた急激に変わっているわけですよね。たとえば、僕が1984年に、ある中堅の出版社から出させていただいた最初の本は暴走族についての本です。いわゆる「モノグラフ」だったのですが、当時3000部刷りました。いまは、そんなに刷れないですよね。いまだったら1000部とか、よくて1500部くらいでしょうか。25年前は2倍刷れたのです。それがどんどん変わってきていて、何が起こっているんだろう、と。
 いわゆる業界モノといったら業界モノなのですが社会学でいう文化生産論的な視点で、文化というものをつくる現場がどのようにして文化生産物の内容に影響を与えているのか、という点を中心にしています。特に組織と職業の側面に注目しています。つまり、出版社という組織がどのような構造になっていて、どのような人々がどのような仕事をしながら本をつくっているのかということですね。
 組織理論や職業社会学の観点から10年近く分析してきました。そろそろ何らかのまとめをしなければ、と思っています。いま考えてるのは、いろんなタイプの出版社ないし大学出版部あわせて4社くらいの事例研究を通して、出版の現在を浮かび上がらせるというものです。
 リサーチ・クエスチョンは三つ想定しているのですけれど、一つは学術書って何なんだろう、ということ。もう一つは学術出版社って何だろう、と。最後に、出版社においては、どのような形で学術書の刊行に関する意思決定がなされていくのか、ということです。
 もう一つ興味があるのは、さっき言ったように日本というのは、違ったタイプの出版社のあいだでどんな棲み分けがなされているか、ということです。アメリカみたいな社会だと、非営利と営利とか、わりと明確に区別できるところもありますが、日本だと欧米のメディア・コングロマリットみたいにがっぽり儲けましょうとか、電子ジャーナルの料金を、とりあえずとれるだけ図書館にチャージしてしまおう、みたいな出版社ってそんなにないですよね。
 日本の場合は、専門書出版社というと、結構どこでも一種のこだわりや志があって、いい本を出したい、みたいなところがあるような気がします。それはすごく良いことだと思うのですが、ではそういう出版社のアイデンティティって何なんだろう、と。やわらかいものや教科書的なものも出しながら、同時にかなり高度な研究書も出している。そういう場合に、出版社という組織の中のメンバーは、自分たちの組織は何なのかという点についてどのような認識を持っているか、という点にとても興味があります。それと、その一方で外から見たときのイメージというものも確固としてあるように思います。その組織アイデンティティと組織イメージの関係やギャップみたいなものにすごく興味があります。

―――実際に出版社の中に入っての調査で感じたこと、あるいは出版業の今後の方向性について考えていることなどはございますか?

 僕の見ている限り、大きな変化があったように思います。特に最近気になるのは、僕たち大学人も同じなのですが、編集者の人たちがかなり時間に追われている、という感じがします。あまり落ち着いて物事を考えられる余裕が無くなってきているのではないか、という印象があります。
 アメリカの大学出版部は幾つかありうる中での一つのモデルにすぎませんが、厳密で丁寧な査読プロセスや編集のプロセスなどについては、まだまだ学ぶべきところがあるような気がしています。それに関連することですが、われわれ大学人がアメリカに学ぶべきこととしては、査読とはまた別のレベルで、互いに本になる前の原稿を見た上でアドバイスやコメントを加えるという習慣があげられるでしょうね。
 アメリカでは、大学院教育の時点でも、それに似た指導が行われているようです。実際、僕の狭い体験から言うと、アメリカの大学院でよく教材として使われていたのは博士論文を本にしたものなんです。そういう本では、文献レビューをきっちりとしてあるのですごく読みやすいですし、一つのことをまとめて見せてくれる。それがそのまま教材として使え、次世代の研究者の再生産に使える。そういう出版物はアメリカではすごく蓄積されているようですが、日本にはあまりないですよね。
 日本でも、そういう、大学人の間で原稿にコメントを与えあう習慣とか大学院教育のあり方を全部ひっくるめた形での、もっと丁寧な本づくりの慣行は根付いていかないことには、できてくる本の深さとか持続性は保証できないのではないでしょうか。



INDEX  |  HOME