デジタル・コンテンツと書物

福嶋 聡



 この原稿もそうであるが、パーソナルコンピュータの普及のおかげで、文章を書く、その文章をしかるべき場所に送るという作業は、随分と楽になった。その前身であるワープロの出現がなければ、恥ずかしながらもの凄い悪筆であるぼくが、書物を上梓することなど不可能であったろうと思う。そんな個人的なことを打っ棄っても、コンピュータの出現が書物の編集現場、販売現場で大きな省力化を果たしたことは事実だと思う。
 その一方で、コンピュータの出現、それに続くインターネットの出現、今では“WEB 2.0”と呼ばれる状況が書物出版・販売の存続を脅かしていることも事実である。
 グーグル・ブック検索について、永江朗は次のように言う。“出版社にとって、ブック検索に参加することにはメリットとデメリットが考えられる。メリットは販売促進である。検索によってその本の存在がユーザーに知られ、購買につながるかもしれない。グーグルが本を販売するわけではないが、検索結果の画面からネット書店等にリンクが張られているし、実際に店舗を持つリアル書店の場所も教えてくれる。しかし、ネットでの閲覧だけで用が済んでしまえば、本は売れないかもしれない。それがデメリットだ(1)。”
 出版・書店業界にとってのそうした両義性(アンビヴァレンツ)を尻目に、グーグルやアマゾンは書物のコンテンツのデジタル化を着々と進めている。
 一方で、「出版物=紙ではない」と、小学館ネット・メディア・センターの岩本敏は、インターネットやケータイ分野への進出を必至と見る。“我われが培ってきたものは、紙に印刷することではなく、出版するコンテンツを創ること。つまり編集するということだ。それがお金になる価値を持つ。だから紙であろうとデジタルであろうと、パッケージは何でもいい(2)。”
 出版物のデジタル化、出版物販売のインターネット化、これら2つの(混同されることが多いが実は全く別物である)“WEB 2.0”化は必至であり、書き手・読み手両者にとって歓迎すべき進化なのであろうか。
 一見話がそれるようだが、先に引用した永江の文章も含まれる『論座』2007年12月号の「ネット時代の知財戦略」という特集が、参考になる。そこで「著作権」の概念じたいが問い直される理由は、コンテンツのデジタル化によって、コンテンツのコピーが(技術的に)余りに容易になり、(倫理的に)余りに安易になったことだからである(3)。その問い直しは、インターネット時代において書物とは何か、という問いに否応なくつながるのだ。
 寄稿している山形浩生(評論家、翻訳家)、白田秀彰(法政大学社会学部准教授)の文章を読むと、「著作権」が保護しているのは、創作者ではなく出版社であるということに気付かされる。
 「著作権」という概念の根拠となる「創作者の利益」は、白田によれば次のようになる。
 “a 言論表現の自由が可能な限り保障されること――創作活動にとって損失や責任を負う可能性が小さければ創作に着手する意欲が減退しにくいだろう。b 作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること――作品が自由に広く多くの人に届いて初めて、創作者は、公平な評価や経済的利益を受けられる(4)。”
 同じ事を山形浩生が言うと“1 なんでもいいからとにかく創作されるものの幅と量が増えること 2 それをなるべく広く享受・利用されやすくすること(5)”となる。
 すなわち「創作者の利益」とは、自らの作品が発表され、広く流布されることなのだ。経済的な利益は二の次、あるいは付けたりなのである。だから、「著作権」は創作者の経済的利益あるいは生活を保障するものでは全くない。作品が享受されるのを保証するものではない。白田は“創作者が高い評価や豊かな経済的利益を受けられる保障はない。作品を評価し、創作者に人格的経済的報酬を与える動機は、私たちの自由意思に依存しているのだから、それを法律や制度によって強制することはできない(6)。”と言い、山形は“何か作品を作ったら、それをネットで公開するのはそんなにむずかしいことじゃない。もちろんネットにあげれば必ず見てもらえるというものではない(7)。”と言う。
 「著作権」は「作品が可能な限り多くの人のもとに届けられること」を保証するために、出版活動を、言い換えれば出版社を守るものなのだ。出版活動をする“事業者には、優れた創作者や作品を発見する費用、作品を洗練し編集する費用、そして複製原版を作成する費用が、複製物を作成する全段階の大きな費用として生じ(8)”、“排他的独占権は、出版社たちの業界秩序を維持する必要から生じたものである(9)。”
 こうした「必要」は、出版という営為が「作品が自由に広く多くの人に届く」ために不可欠であればこそ、成り立つ。インターネット時代の今、その前提は崩れ去っている。山形は、本来創作者を助ける目的でつくられた「著作権」が創作の邪魔になっているとさえ言う。“クリエーターたちはますます窮屈な状況に追い込まれている。映画やビデオの作家は、街角の風景を写すたびに各種商標やロゴを避けなきゃならない(欧米のテレビでよくTシャツや帽子にモザイクがかかっている間抜けな状況はこのせいだ(10))。”
 では、「著作権」は無用の長物なのか? 言い換えれば、「出版社たちの業界秩序を維持する必要」は無いのか? その問いは、インターネット時代が到来した今、書物という媒体(メディア)の存在理由(レゾン・デートル)への問いでもある。
 学術雑誌などは、既にずいぶん前からデジタル化されている(11)。デジタル化した方が、伝播速度は速いし、引用も検索も、書物に比べて著しく容易である。だが、容易さという光は、陰も生む。(文系・理系問わず)大学生・大学院生の多くが、論文を「コピペ」で済ませている、という批判もよく聞く。彼らにとっては、必要な情報さえ手に入ればいいのであって、そのために何冊もの書物にあたるというのがまだるっこしいのかもしれない。だが、その「まだるっこしさ」にこそ大切なものがあるのではないか。デジタル・コンテンツの検索では出会えない、思ってもみなかった視点に邂逅できるのではないか。(その「まだるっこしさ」は、キーワードですぐに必要な本に行き着くネット書店に比べた時のリアル書店の「まだるっこしさ」にも通じる。すわなち、リアル書店もまた「思ってもみなかった視点に邂逅できる」という属性を共有すると思う。)
 「本は、買って下さい。」ジュンク堂書店池袋本店の「作家書店」の企画を引き受けてくださった「うえの・ちずこ書店」店長上野千鶴子氏は、オープニングセレモニーで、集まった読者に向かって、力を込めてこう言った。「本を買って自分のものにすれば、書き込みができるからです。読んで、どんどん本に書き込みをして下さい。」
 本の価値は、――それが学問であれ虚構であれ――読んではじめて、読書という体験を通じてのみ現実化する。本への書き込みは、その体験の「痕跡」である。その「痕跡」は、読者にとって一種の外部記憶装置である。そう、書物とはその書物が誕生する以前に生まれたコンテンツの記憶装置であるとともに、「読書体験」そのものの記憶装置でもあり得るのだ。
 一方、デジタル化されたコンテンツにも、弱点はある。外部環境依存性の強さと書き換え・伝播の容易さである。
 前者は、デジタル化されたコンテンツには、コンピュータ等のハードと共にそれを読み込むためのアプリケーションソフトが必要であることだ。双方ともに進化・淘汰が繰り返され、一定期間を経ればバージョンアップは当たり前である。バージョンアップのせいで読み込めなくなることもある。現にぼくは最近、Adobe Readerのバージョンアップのおかげで、タイムサービスで買ったデジタルカメラの使用説明書が読み込めなくて困った。
 また、そもそもコンピュータの立ち上げには何らかの電源が必要だ。普段何気なく接しているデジタル・コンテンツは多くの環境に支えられているのだ。一方、書物に絶対不可欠なのは、強いて言えば「光」くらいである。
 後者の書き換え・伝播の容易さは、本来デジタル・コンテンツの強みでもあるのだが、逆にそこが脆弱性という弱点にもなってしまうのだ。さまざまなプロテクトの技術があるとはいえ、基本的にはデジタル・コンテンツは容易に書き換えが可能で、表面的にはその痕跡が残らない。例えば『六法全書』が無くなり、すべての法律がデジタル・コンテンツだけになってしまった状態を想像してみよう。法廷において、判断基準となるものは、その度にノート型パソコンか何かで呼び出されるデジタル・コンテンツなのだろうか。必要に応じて、Power Pointでスクリーンに映し出したり、そのハードコピーを配布するのか? その短い作業の過程でも、コンテンツの書き換えは容易であろう。
 直観的に、デジタル・コンテンツは、どうにも「典拠」にはなじまないと感じるのだ。
 モーセは、イスラエルの民に神の命じるところを伝える際、「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない(12)。」と言った。そして『聖書』は少なくとも約2000年の長きにわたるベストセラーであり、キリスト教圏の何よりの「典拠」であり続けている。英語圏では“The Book”と言えば『聖書』のことである。
 先に引用した白田秀彰は、現代のメディア企業の機能を、次のように整理する。“1 世に周知すべき価値のある創作者や作品の発見、2 創作者の育成、作品の洗練整理、3 複製物作成販売のための事業計画と資金調達、4 世に周知するのに十分な数の複製物の作成販売、5 流通経路の整備維持、6 告知宣伝、7 創作者の管理監督(13)
 1、6は、いわゆるマーケティングや広告宣伝事業であり、2、7は、いわゆるタレントプロダクション事業であり、3は資金調達やプロジェクト管理事業である。コンテンツのデジタル化で直ちに代替されるのは4だけであり、残りの機能、一言でいえばプロデューサーとしての役割は、依然重要なものであるはずだ。生き残る書物に不可欠なのは、自らが担うコンテンツに信頼を抱かせる「ブランド性」なのである。デジタル・コンテンツに勝る「典拠」性こそ、書物が生き残っていくための「砦」だと思う。
 それゆえに、いつ消え失せても困らないような書物の粗製乱造は、出版業界にとって、自らの存在理由(レゾン・デートル)の否定に他ならないのである。
(ジュンク堂書店大阪本店店長)

■注
(1)永江朗「グーグル・ブック検索は脅威か新たな可能性か」(『論座』2007年12月号82頁)。[→本文へ戻る]
(2)『新文化』2720号。[→本文へ戻る]
(3)「著作権」とは、そもそも“copyright”の訳語である。[→本文へ戻る]
(4)白田秀彰「権利を強化しても誰も幸福にならない」(『論座』2007年12月号97頁)。[→本文へ戻る]
(5)山形浩生『創作活動の民主化と著作権』(『論座』2007年12月号79頁)。[→本文へ戻る]
(6)白田前掲論文区93頁。[→本文へ戻る]
(7)山形前掲論文78頁。[→本文へ戻る]
(8)白田前掲論文94頁。[→本文へ戻る]
(9)白田前掲論文94頁。[→本文へ戻る]
(10)山形前掲論文81頁。[→本文へ戻る]
(11)湯浅俊彦『デジタル時代の出版メディア』「一時間目 学術出版の世界は激変している」(ポット出版 2000年)。[→本文へ戻る]
(12)『申命記』4.2。[→本文へ戻る]
(13)白田前掲論文98頁。[→本文へ戻る]



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