初版本、ナンセンスなフェティシズム

小林榮一郎編著『本の革の話』

酒井道夫



 ネットで古書を探す利便を知ってからというもの、かつての探書を巡る悲喜こもごもはあれは何だったのかと思う。表題の本も、今では3000円前後で入手可能なようだ。もっとも本来なら「装幀皮革見本」が添えられていたらしいが、私が所有する本にはこれが付属していない。でも目下これで充分満足なのだ。この本は1969年刊行の非売品(小林栄商事刊)で「総山羊革装」と謳うが、地券紙を芯にした総革装辞書類と同じ丸背突付装。函入り、A6判の小型本(印刷・精興社、製本・星共社)。天小口と箔押しの金が今も輝きを失っていない。
 いつ頃だったろうか、可愛い学生さんの1人が「私のお祖父ちゃんが書いた本です」と本書を持ってきたので、しばらくこれを借りていた。「ギン(いちばん上の表皮)を剥がしたトコ(床)革は、いくら加工でギンつきのようにみせてもダメ」なんていう知識はここから得たのだ。装本用の革は3枚に剥いだりするらしい。そこで自宅の書架にある数少ない革装本を点検すると、ギンつき革を用いた本なんてほとんどないことが判明。ことごとく褐色の粉を噴いて無惨に崩れかかっているではないか(この現象をred rotと言うらしい)。いや参った、参った。それに比して、本書ギンつき山羊革装本のしっとりとした手触りの奥ゆかしさ! 表皮はあくまで上品な滑らかさを保っている。
 この本ばかりは心底手元に置いておきたかったが、可愛い子ちゃんの手前泣く泣く返却。私家本だから二度とお目にはかかれまいと決別したのだが、なんと後日、神田の古本街で美本に遭遇。喉から手が出るほど欲しい気持ちを店主に悟られたら吹っ掛けられるんじゃないかと思い、ついでに買うんだみたいに装って支払いを済ませ、店を出たとたんに脱兎の如く駆け出したのである。完全に自分だけの独り相撲だったのだろうけど、今じゃあこういうスリルはない。「天下に公平なネット」がもたらした結果でしょうかね。
(武蔵野美術大学)



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