グローバリゼーションと専門書

長塚 妙子



 アジアで唯一の著作権条約加盟国だった日本

 この30年を振り返ってみると、専門書の翻訳出版をとりまく状況が大きくかわったことには驚くばかりである。1970年代の日本は、アジアで唯一著作権条約に加盟しかつきちんと契約する国だったため、ちやほやされるとまではいかないが、めずらしいので多少のことは大目に見てもらえるという特権的な立場にあった。金銭的な条件が低くとも、たいていの原著者は自分の学説が紹介されるだけでよしとしていたのである。当時の印税前払金は1000ドルから1500ドルといったところで、今日よりも円が安かったので30万円前後だったと記憶している。通信費が高かったので本を送るのは船便、国際電話などはよほどのことがないかぎり考えられない時代だった。
 現在はどうかというと、中国・韓国が著作権条約に加盟して久しく、両国での翻訳出版がさかんになってきていることは、ご存知の方も多いだろう。アメリカのベストセラーに韓国の方が日本よりも高い条件を提示することもしばしばである。そうなってくると、欧米出版社も東アジアの中で日本だけを特別扱いするわけにはいかない。韓国や中国よりも高い印税前払金を要求する。学生が本を読まず、出版社がどんなに苦戦をしいられていようとも、GDP世界第2位の威光は大きい。出版期限についても同じく、もはやかつてのように4年でも5年でも待ってくれるようなことはない。国際的に見たらそれでも長い24ヶ月(通常は18ヶ月)以内に出版できなければ追加前払金を求められ、延長した期限を守れなければペナルティあるいは再契約という考え方が主流になりつつある。後者の場合、最初の契約の印税前払金は払い捨てである。というのも、中国・韓国では大部分が当初の予定どおり期限内に出版されるからだ。特に社会主義の中国では出版計画に政府の認可が必要なため、出版社として予定変更は極力避けたいところだろう。

 アジア諸国の翻訳出版事情

 中国・台湾・韓国では日本語からの翻訳出版もさかんである。韓国では英語からの翻訳と日本語からのそれがほぼ同じくらいの割合だと聞く。8割がたが英語からの日本とは対照的だ。最近では印税前払金が額面で5万円、税金や手数料を引くと手取りが2万円にしかならないというようなこともなくなり、中国でも額面で10万円は出せるようになってきているので、今後契約を結ぶ際には、その金額を基準にするのがよいと思う。3万円だと、場合によっては日本側の持出しの可能性もあるが、10万円ならばたとえ各人の受取り額は少なくともマイナスになることはない。
 ただし、中国で誤解してならないのは、人口が10億を超えてはいても、専門書が日本の10倍売れるわけではないということだ。中国人留学生もめずらしくなく、街なかでそれらしい人の中国語を聞く機会も多い昨今ではあるが、大学に進学するのは同年齢のうちごくわずかにすぎない。日本語から翻訳された専門書の初版部数はたいてい3000部以下で、重版されるのは半数にも満たない。したがって、人口が多いのだからと印税収入を待ち望んでもはかない夢である。今後、大学の数が増え、進学率も上がれば多少状況も変わるだろうが、そのときには出版点数が増え、しかも中国人著者の本が増えるだろうから、翻訳書の点数および初版部数はそれほど増えないだろうというのが私の予想である。とりあえず本を出さなくてはならないときには翻訳書に頼り、何年か経って人材が育ってきたら国内の著者に執筆を依頼するのはどこの国でも同じで、今から20年前のコンピューター黎明期には各社が争うようにしてアメリカの実技書を翻訳出版し、ぶ厚くて装丁もいささか派手な書物の一群が書店の棚を占有したが、今ではすっかり鳴りをひそめ、題名にこそカタカナやアルファベットが入ってはいるものの、著者は全員日本人のコンピューター書が主流を占めているのがよい例である。もし同じ主題が書けるのだとしたら、外国の著者よりもその国の事情に合わせて書ける国内の著者に軍配があがるだろう。
 韓国の場合は、人口が日本の半分なので初版部数は1000部あるいはそれ以下のケースがほとんどである。特筆すべきなのは、距離が近いこともあって、あくまで訪問される側の印象としてだが、いささか唐突に訪ねて来るということだろう。戦後すぐまでの小説の中では主人公が何の約束もせずいきなり友人宅を訪れたりするが(とはいえ約束しようにも電話もメールもなかったのではあるが)、韓国にはその伝統がまだ生きているらしい。もし先方が社長で、日本側も同等あるいはそれに準ずる立場の人が対応したのであれば、その場で話し合われたことには、たとえ口約束であっても契約したと同じ効力がある。その点を認識していないために、日本出版社の多くは、会話の流れで諾と言いはしたものの、書面を取り交わしたわけではないのだから承認してはいないと考えるが、韓国出版社は社長が諾と言ったのだから承認された、あとは契約書に署名するだけ、と考えるのである。国際的な慣例からいえば、後者の考え方が正しい。そういう日本出版社も、アメリカ出版社がYESと言わなくとも断固としてNOと言わないかぎり、受け入れられたと思い込んで帰って来るのである。人間とは立場によって考え方が異なるものだ。

 巨大化する欧米出版社

 日本だけをとってみても、30年前に比べればアジア諸国との接触は格段に増え、これがグローバリゼーションということかと感慨もひとしおだが、眼を欧米の出版界に転じると、さらに重大な変化が起きている。大出版社による中小出版社の吸収あるいは大出版社同士の合併がそれで、すでに医学書はオランダ資本による二大寡占となって久しい。実際にそのようなことは起こらず、極端な言い方だとは思うが、ある医学書の著者がその2社のご機嫌をそこねてしまったら、英文原稿を持ち込める社は世界中であと2社あるかどうかという状況に近い。以前,両社合併の話が持ちあがったものの、自由競争の妨げになるとして米政府が承認しなかったために実現にはいたらなかったという噂があながちうそでもなかろうと思われるほどに巨大なのである。人文系では2007年初頭にアメリカのジョン・ワイリー社が同社以上に歴史のあるイギリスのブラックウェル社を吸収したことが記憶に新しい。
 このような動きにともなって、ひとつには歴史が継承されないという現象が起きる。会社の組織が変わること自体に嫌気がして辞めてしまう人もいれば、新オフィスが物理的に遠くて、通いきれなくなって辞めてしまう人もいて、長年勤めている人が減ってしまう。両社のデータがうまく統合されれば問題ないが、必ずどこかに欠損が生じる。特にコンピューター化する前の記録がわからなくなってしまうことが多く、20年以上前の出版物については、引き継いだ社では調べようがないと思って間違いないくらいである。翻訳権の問合せを受けても、一体全体誰に何をどのように訊けばよいのかがわからないのだ。
 もうひとつには、窓口の担当者に過重な負担がかかる。そもそもなぜ大きくなるのかといえば、資本がより大きな利潤を求めるからで、余剰人員などは真先に追いやられてしまう。2社がいっしょになった場合、それぞれに担当者がいたのであれば必ず1人に減らされるし、片方にしかいないのであればその担当者が両方をあわせ見るので、以前の何割増かの仕事量をこなさなければならなくなる。翻訳権契約がたいへん儲かるというのであればいずれは人員も増やしてもらえようが、専門書の場合はまったくそんなことはなく、東欧や東南アジア諸国との契約は高くても1000ドル、通常は数百ドルなので、3年間上司に訴え続けているのにいっこうにアシスタントを採用してもらえないという愚痴も耳にする。実際、取引先の中には読むだけでも時間をとられるから決して催促のメールは送ってくれるなという社があり、問合せてから回答が返ってくるまで2〜3週間はかかる。さぞや毎日、世界のさまざまな国から膨大な数の問合せを受けているに違いなく、気の毒なほどである。

 出版業界への提言

 いろいろ述べてきたが,最後に出版関係の皆さまに申し上げる。2年前に翻訳権契約をしたものの、いまだに出版していないならば、ただちに延長の手続きをしていただきたい。コンピューター化された社会ではすべてが○か×のどちらかで、なにもしないでいれば当然×になってしまうのはセンター入試と同様である。まだ翻訳が出来上がらず、そのために遅れているのなら、すぐさま別の人に依頼していただきたい。本人がいくら主張しようと、できない人にはできないし、万が一出来上がったとしても、読むに耐えない日本語でそのままでは出版できないこともあるので、時間内にきちんと仕上げられる別の人に頼んだほうが賢明というものである。いっそ出版を断念するという選択もある。翻訳者がどうしても自分でやるといって譲らず、断わりきれなくて追加前払金を払って延長したものの、やはり原稿が出来上がらなかった例は、枚挙にいとまがない。もし自身が翻訳中という方で、依頼を受けて1年が経過しているのであれば、あと3ヶ月で仕上げていただきたい。編集者はたくさんの案件をかかえているので、原稿を受取ってすぐに取りかかれるとはかぎらないからだ。3ヶ月では到底無理だ、あと1年はかかるというのであれば、早めに編集者に申し出ていただきたい。また、外国から翻訳の申込みがあった際には、印税前払金が10万円、印税率6%など条件が一定水準を満たしているのであれば、先方は信頼のおける社かどうかなど余計な心配はせずに、どんどん契約していただきたい。企業の不祥事は今やめずらしいことではないので、信頼できるのかと訊かれても、わからないとしか答えようがない。おおむね信頼できる相手であっても、ある特定の部分ではそうでない可能性もあるからこそ、契約書を交し、違反した場合には話し合いで解決策を探るのである。
 以上の提言に、ついていけないと思った人には無理強いしない。若い世代に期待する。
(日本ユニ・エージェンシー)



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