訳文の「質」の問題

青木 薫



 翻訳の質は下がったのか?

 「翻訳出版における日本語の質を維持するにはどうすればいいか?」というテーマで何か書くようにとのご依頼を受けた。このテーマを拝見してまず思ったのは、「維持ではだめだろう?」ということだった。「維持するんじゃなくて、さらに向上させなくちゃ!」と。しかし依頼者にお話しを伺ったところ、「せめて維持ぐらいはしたい」思うほど、近年、日本語力の低下を感じておられるとのことだった。
 この点は、ポピュラーサイエンス翻訳出版の現場にいる私と、少し見方が違うように思った。少なくともポピュラーサイエンスの分野では、ここ20年ほどのあいだに徐々にプロの翻訳家が進出したこともあり(以前はもっぱら大学の先生が訳していた)、訳文のリーダビリティはずいぶん向上しているように思うからだ。

 専門書の翻訳

 プロ翻訳家はリーダブルな訳文を作るために日々努力を重ねているので(それが仕事なのだから当然だ)、出来上がってくる訳文は読みやすいものになる。だが、専門性の高い原著となるとプロ翻訳家には扱えず、専門家に訳していただくしかない。その理由のひとつは、言うまでもなく、専門家でなければ内容を理解して訳せないからだが、もうひとつの理由は、フリーランスのプロ翻訳家では、ある程度の収入がないとそもそも翻訳という仕事を継続していけないからでもある。どこかから給料が出るわけではないプロ翻訳家は、出版部数の少ないものは、たとえやりたくてもやれないという経済上の厳しい現実がある(さらに言うなら、出版部数が比較的多い作品であっても、『ハリー・ポッター』のような大当たりを例外とすれば、一般に翻訳は経済的には報われない仕事だ。ポピュラーサイエンスを手がけるプロ翻訳家は、「翻訳が好きだから、経済的には苦しくてもがんばる!」という人ばかりなのである)。
 そんなわけで、専門書(あるいはそれに近い一般教養書)の翻訳という大切な仕事は、どうしても専門家の方にやっていだたくしかない。研究・教育の傍ら翻訳作業をするのは大変だとは思うけれども、それはやるに値する重要な仕事である。私たちプロ翻訳家も(仕事に必要な調査ということで)、そうした訳業に助けられている。専門家のみなさんが、意義を感じて翻訳に取り組んでくださっていることを、非常にありがたく思っている。

 「大学の先生」の翻訳文

 ところで、プロ翻訳家の訳文が読みやすいのは当たり前として、プロ翻訳家ではない学術分野の専門家(専門家は多種多様な機関に所属しておられるが、以下では代表して「大学の先生」と言わせていただく)に訳していただき、かつ日本語としてリーダブルな本を作るにはどうしたらいいのだろうか。
 私は、大学の先生に「リーダブルな訳文を作ってください」と言ってもほとんど意味がないと思う。「作ってください」と言われてできるぐらいなら、誰も苦労はしないからである(もちろん大学の先生の中にはリーダブルな訳を作れる人はいるだろうが、そういう人は、「作ってください」と言わなくても作る)。私などは20年も翻訳ばかりやってきたというのに、いまだにどうしたら訳文が改善させられるのか日々頭を痛めつつ推敲に取り組んでいる。翻訳を始めたばかりの頃は、長年努力を重ねていれば、だんだん楽にリーダブルな訳文を作れるようになるのだろうと期待していたが、どうやらそうはいかないようだ。訳文を作るという作業は、どこまで行っても楽にはならないのだな、とハラをくくっている今日この頃である。
 奇妙なことに、日本語で書き下ろすときには達者な文章を書く人でも、翻訳となると急に不自由でぎくしゃくした文章を作ってしまう。その不自由な文章を推敲で直すという作業が、非常に難しいのである。毎日推敲作業をやっているプロ翻訳家でもこれなのだから(スイスイ書いているように見える訳文ほど、苦労しているのです)、たまに翻訳をやる大学の先生にリーダブルな訳文を作ってほしいと期待するのは間違いだと思う。

 訳文を読みやすくする仕事

 では、どうすれば読みやすく、わかりやすい訳書ができるのだろうか? 私は、訳文をリーダブルにするという仕事は、結局のところ編集者がやるしかないと思う。常識的に考えて、プロ翻訳家の作った訳文よりも、大学の先生の作った訳文のほうが、リーダビリティという観点からは修正の余地があるはずだ。ところが、日常的に大学の先生と付き合っている編集者ほど朱入れをしないように思うのだが、いかがだろうか? この、「大学の先生の場合、訳文に手を入れにくい」という風潮を徐々に変えていかなくてはならない。そのための啓蒙活動をさまざまな機会にやっていく必要がある。つまり、「翻訳というのはやっかいな作業なのだから、うまくできなくて当たり前です!」ということが常識になればいいと思う。
 逆に言うと、現状では、これが常識になっていない。大学の先生は、翻訳ぐらいはできて当たり前(そんな暇がありさえすれば)と思っておられるようだ(これは決して、「ナメんなよ!」と非難しているのではありません)。とくに理系の研究者は英語で読み書きするので、「自分は英語ができるし、日本語は母語なのだから、翻訳ぐらいできるのは当然」というのが、大学の先生の常識であるように思われる。これはもっともな理屈なのだが、このように思われている限り、編集者が朱入れをすると先生のプライドを傷つけてしまいかねない。つまり、「うまくできなくて当たり前、誰かに直してもらえるのはありがたいこと」というのが常識にならない限り、改善は望めないと思うのだ。理想的には、大学の先生は書かれている内容にきちんと責任をもつ。一方、リーダビリティについては編集者の意見を最大限に尊重する。この分業が当たり前になればいいと思う。したがって、具体的な訳文作りの作業としては、

・まず先生に訳していただく。
・リーダビリティーの観点から、編集者が(大幅に)手を入れる。
・編集者が手を入れた結果、内容理解にズレが生じたところを、さらに先生が直す。

ということになるだろう。

 編集者の仕事

 このように述べると、編集者のみなさんからブイブイ文句が出そうだし、すでにあちこちから石が飛んで来ているような気もする。「編集者にはそんなことをやっている暇はない!」と。
 たしかに、私が存じ上げる編集者はみなさん非常に忙しい。出版社ごとに編集者の仕事の範囲がかなり違うように見えるし、同じ出版社の中でも、具体的な作業のやり方は編集者ごとにかなり違っている。しかしどなたにも共通しているのは、「忙しい!」ということだ。少なくともポピュラーサイエンスの翻訳出版では、原書を検討して(誰かにリーディングを依頼することも含む)、出版を決断し(フォーマルには編集会議で決断されるにせよ)、翻訳者を選定し、出来上がってきた訳文をチェックするのはもちろん、商品設計も、果てしない交渉ごとも、装丁から何から……いっさいがっさいを把握し、各部署と連携して作業を進め、翻訳書を商品として世に出しているのは編集者なのである(私などがこの場で改めて言うようなことではないが)。出版翻訳においては、編集者こそが一国一城の主であり、私のような翻訳者は(良い意味で!)歯車のひとつだと思う。私は、「強度があって精度の高い歯車だ」と思っていただけるよう日々努力しており、編集者に不要なお手間をかけさせないよう、少しでも楽に仕事をしていただけるよう、自分の領分で頑張っているのである(ホントです!)。
 編集者のご苦労を多少とも理解しているつもりの私が、それでもなお、「大学の先生の訳文をリーダブルにするという仕事は編集者がやるしかない」と思うのである。もちろん、編集者にしたって、訳文推敲のために日々研鑽しているわけではないという点では大学の先生と同じだろう。だが、毎日文章に関わっている編集者は、訳文推敲力という点ではずっと有利な立場にあるはずだ。ここはひとつ、明日の日本の学術・文化のために、編集者のみなさん、大学の先生の訳文に手を入れてください!

 チェックポイント

 そこで本稿の最後に、訳文をリーダブルにする際に、きっと役立つと思われる基本的チェックポイントを提案させていただこう。そんなことぐらいわかっていると言われるかもしれないが、しかしこれら2点は、20年間翻訳をやってきた人間が、今なおチェックの基本だと思っていることなのである。

1 意味がユニークに決まらない文を見つけて修正する。(翻訳版マーフィーの法則:誤読される可能性のある訳文は必ず誤読される)
2 一読して意味のわからない文を拾い出して修正する。(翻訳リーダビリティの指数法則:読者の頭に?が浮かぶたびに、その本のわかりにくさは指数関数的に増大する)

 これだけで翻訳のリーダビリティは20パーセント向上する(当社比)。ぜひ試してみてください!
(翻訳家)



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