ナチュラルヒストリーの動向

佐々木 猛智



 ナチュラルヒストリーという学問

 ナチュラルヒストリーという言葉は説明が難しい。漢字で書けば「自然史」。なぜ歴史の史なのか。これを「自然の歴史」と訳してしまったのでは、地学と古生物学だけの話になってしまう。
 ところが、この場合のhistoryは「歴史」ではなく、記述することであるという。そこで、大きな辞書のhistoryの項目を開くと、「体系的な記述をすること」という訳がのっている。
 さらにhistoryの語源を辿っていくと、もともとは「調査で得た知識」という意味がある。歴史も過去の事実をひとつひとつ調べて記述することから始まるわけであるから、歴史も記述から出発している。
 ナチュラルヒストリーとは「自然記述学」、つまり自然を科学的に記述する学問、あるいは自然の記述法を研究する学問、と理解すればよいであろう。
 だから自然史と書かずにストレートにナチュラルヒストリーと書いた方が、むしろ誤解がないかもしれない。どうしても漢字で書きたいのであれば「自然誌」と書いた方がよいという意見もある。しかしこれもまた普通の人々には理解できない言葉である。そのためであろうか、自然史博物館というのはあるが自然誌博物館というのは見たことがない。

 ナチュラルヒストリーのこれまで

 ナチュラルヒストリーという言葉は、著者が研究をはじめた1990年代前半には存在感がなかった。なぜなら、大学の科目にもナチュラルヒストリーというものはないし、ナチュラルヒストリーのまとまった団体も見あたらないのである(いまでは自然史学会連合という大きな組織がある)。
 さらに困ったのは、ナチュラルヒストリーという言葉の意味が全然理解できなかったことだ。どこにも説明がないのである。なぜ自然博物館ではなく、自然史博物館なのか。私の指導教官は確かにナチュラルヒストリーの研究をしていたのだが、「自然史とは何か」という説明は一度も聞かないまま卒業してしまった。
 そのようなわけで、博物館に就職してしばらく経つまでその意味を理解できなかった。ナチュラルヒストリーを研究している私ですらそのような状況であるから、他の人々も似たような状況ではないか。だとするとナチュラルヒストリーの存在は一般の人々には正しく理解されていなかった、あるいは現在でも理解されていない可能性がある。

 最近のナチュラルヒストリー

 一方で、学門の分野では、ナチュラルヒストリーの伝統が確実に存在していたことは疑う余地がない。特に生態学、分類学、地質学などはナチュラルヒストリーの王道である。これらの分野では常にフィールドワークを通じて自然に接し、自然を記述してきた。
 例えば、サルの生態を研究する研究者は、サルの生き様を観察するために、生息地に小屋を建てることからはじめた。この話を私は小学生の頃、本で読んで大変感激したものだ。自然を研究するにはそこまでする熱意が重要である。
 ところが、学問が進歩するに従って、素朴な観察だけでは物足りなくなり、高度な技術や理論が必要になってくる。しかし、必要とされる技術や理論のレベルが向上すればするほど、その運用に時間がかかるようになり、フィールドとのかねあいが難しくなってくる。
 昨今ではエスカレートした話も多い。例えば、分類学の分野では、DNAの塩基配列以外見向きもしない研究者が存在するという話しがある。最近又聞きで聞いた話では、アメリカでかつて分類学の自然史的研究を行っていた研究室が、今では「ゲノム工場」と化しているという。サンプルは指導教官が様々な手段を駆使して集めてきて、学生がせっせと塩基配列を読み取る作業だけを行っているらしい。

 「死物学」の落とし穴

 「ゲノム工場」の話を聞いて自分もはっとした。最近では、分類学者である自分も形態学や解剖学のデータに熱中するあまり室内にこもりきりである。しかもサンプルは他の誰かから送られてきた固定標本だ。それは大抵、共同研究の一環で、DNAも同位体も既に別の人がデータを出している。
 そのような研究に追われていると、フィールドに出る余裕が全然ない。気が付くと固定標本だけを相手にして、研究がいつのまにか「死物学」になってしまっている。これは自然史研究者として問題だ。
 実は「死物学」は博物館の研究者が陥りやすい落とし穴のひとつである。特に、博物館に既に十分な標本がある場合、フィールドを無視しても論文が書けてしまう。万一自分の博物館にはなくても、世界中の博物館から借りてくればよい。
 固定標本に慣れてしまうと、生きた生物は見た目が異なるため違和感を感じる。研究対象が生きていて動き回るとデータもとれないから面倒だ。即座に固定標本にして、それらの生息環境、他の生物との関係などは全く考えずに、固形物の試料として処理してしまう。
 これはひとつの極端な例だが、似たような問題をかかえている人は少なくないと思われるのである。

 環境問題とナチュラルヒストリー

 私の周辺では、以前よりはナチュラルヒストリー関連の話題を聞くようになった気がする。いくつか理由があるようだが、ひとつは環境問題が以前よりも深刻になったことをきっかけに、自然環境の重要性が再認識されつつあることが背景にある。
 さらに、生物の分野では、外来種がはびこり、多くの稀少生物が絶滅危惧種としてリストされている。外来種は法律でも規制の対象になり、しばしばニュースに登場するようになった。これらの最新動向を知るためには、常に野外に出て、生息状況をチェックしなければならない。これはまさにナチュラルヒストリーである。
 生物や環境の保全との関係から、様々な多くの種を扱うことの重要性も再認識されてきた。かつての生物学では、斉一性が生物学の本質であり、個々の生物で異なる現象に注目するなど、些末なこととして蔑視された。分類学はその象徴だ。A種とB種は棘の数がC本異なる。そんなことはどうでもよいではないかと盛んに言われたものだ。
 しかし、今では多様な自然を記述することを無視できなくなっているのである。これは21世紀に入ってからの明らかな変化である。

 研究の現場における実感

 一方で、ナチュラルヒストリーには逆風が吹いているらしい。特にフィールドワークの現場ではそれが深刻であるという。学生が野外に出なくなった、つまりインドア志向で線が細くなっているというのである。
 私がかつて地質学教室で聞いた話では、卒論で年間100日山を歩いて地質図をかかなければ許されなかった程であったという。それだけ時間をかけて自然を学んだのである。
 ところが、既に私が学生の頃には、ほんの数日間の地質調査実習におつきあいするだけで単位が取れたし、さらに最近では、山をほっつき歩いている暇があれば投稿論文を書きなさいと言われかねない状況である。私の指導教官の世代から見れば憂慮すべき事態であろう。
 しかし、この手の話は「今の若い者は」という小言に類するものかもしれない。最近の学生は骨太ですばらしいという批評は一度も聞いたことがないのだが、私の世代にも、私より若い世代にも頑張っている人は確実にいるのである。
 むしろ全員にフィールドワークを期待するのはおかしいのではないか。普通の人は普通に暮らして、自然史を極めたい人は狂ったようにフィールドを歩き、自然を楽しみたい人は楽しみながら歩けばよい。万人に一様にナチュラルヒストリーを求めるのは無理である。
 本当の問題は、ナチュラルヒストリーの道を目指す人が修行できる場が、昔より限られてきているように見えることだ。本当に研究したい人が本当に研究できる場を常に確保し、その道が途絶えることがないようにすることが大切である。

 ナチュラルヒストリーの論文

 いつの時代にも自分以外の専門分野を非難する者は存在する。例えば、自然史分野の周辺では、「ナチュラルヒストリーは博物学でサンエンスではない」とか、「ナチュラルヒストリーは大昔からある、だからもう古い」などという批判である。この場合、自分の分野は新しいとか、科学の程度が高いとアピールしたいのである。
 長い歴史を重視するナチュラルヒストリーの立場からすれば、そのような主張は大丈夫かと心配になる。今新しいというのは、そのうちに新しくなくなる、ことを意味する。だからまたすぐ次の新しいことを探し続けなければならない。
 ナチュラルヒストリーの分野では、50年経っても100年経っても引用され続けるような著作が存在する。それは大抵、研究者が長期のフィールドワークや標本観察をもとに一生を賭けて書いたような大論文である。そのような著作を目指すことがナチュラルヒストリーの醍醐味であり、私もそのような畢生の大作を完成することを目指して、フィールドを歩き続けているのである。
 ところが、分野によっては5年前の論文はもう古いから読まない、という。私はそれを聞いて本当に驚いてしまった。5年経っただけで読まれなくなるような論文を書くために研究するとは、空しくないのだろうか。もし全ての論文が5年後に読まれないとすると、研究者の人生はおよそ40年間であるから、一定のペースで出版すれば、定年前には全著作の9割弱が誰も読まない論文になってしまう。これは大変なことである。

 ナチュラルヒストリー研究は容易ではないが不滅である

 ナチュラルヒストリーの対象は自然物全て、すなわち動物、植物、鉱物である。これらをすべて観察し、網羅することは容易なことではない。学問の細分化が指摘されて久しいが、ナチュラルヒストリーはとっくの昔に細分化している。それだけ幅広い学問分野であり、一人の手に負えるものではない。
 自然に接しながら自然の真の姿を理解することを目指すナチュラルヒストリーの研究は、長い年月を要するために、心に余裕がなければ実践できない。この点が心配なところである。最近では、研究業績の点数付けがやかましい。脳味噌がインパクトファクターの計算で多忙を極めている状況下では、どうしても余裕がなくなってしまうからである。
 室内で論文を効率よく書くことに専念して自然を無視する方が楽であるから、人々はその方向に流れやすい。一度そうなると、外に出てフィールドを見てこいと言われても困るのである。
 真のナチュラルヒストリー研究者はフィールドも論文もどちらもこなさなければならないのであるから、インドア派の研究者よりも大変である。論文を量産して、さらに自然を楽しむ力量を持つ人だけが、ナチュラルヒストリーの研究者として生き残っていける時代になり、今後もその傾向が強まるのかも知れない。そう考えると、ナチュラルヒストリーの研究をすることは容易ではないのである。
 しかしナチュラルヒストリーは不滅である。自然が存在する限り、それを研究するという学問は必要である。人間は自然を無視して生きていくことはできない。人類は自然を否定し破壊しながら自分の幸福を追求し、その結果やはり自然を無視できないことを知る。学問の世界でも似たような道は避けられないのかも知れない。
(東京大学総合研究博物館)



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