国立大学の法人化後の教養教育

丸山 正樹



 昭和24年の学制改革で日本の高等教育は、旧制高等学校−大学、専門学校、師範学校−文理大学などの複線組織から、大学(短期大学を含む)のみによる単線組織に組み替えられた。それまで教養教育を担ってきた旧制高等学校、予科の大部分は新制大学に吸収され、高等教育における教養教育は大学前期教育の教養課程に衣替えした。これがアメリカのliberal artsをモデルにしたことは明らかであるが、大学設置についてアメリカ流の基準評価制度の導入に失敗し、設置認可という規制の枠にはめたことから、その内容は似て非なるものになってしまった。
 学校教育法に「学校を設置しようとする者は、……文部科学大臣の定める設備、編成その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない」とある通り、大学を開設するには大学設置基準に定められた基準を充たすことが義務付けられている。平成3年までは、教養課程についての基準で人文科学、社会科学、自然科学でそれぞれ12単位、外国語について2カ国語それぞれ8単位、保健体育科目は4単位を必修とすると細かく定められていた。この規制の下での教養教育は、高等教育の大衆化とともに徐々に風化していき、学生たちは理系の基礎科目以外の教養科目を通過儀礼と見なし、担当教員の多くも情熱を失ってしまった。国立大学の半数近くに教養教育を自主性と責任を持って担当する部局として教養部が置かれていた。例えば、京都大学の教養部のように東京大学の教養学部を模して固有の学部と大学院を設置しようとしたところもあったが、教養部教員は多少の劣等感を持ちながら、義務としての教育とは別に研究を本業と考える者、場合によっては研究さえも放棄してしまった者というのが、厳しい言い方であるが、実態であったろう。


 大学設置基準の大綱化

 平成3年に大学審議会は「大学設置基準の大綱化」を答申し、それに沿った新大学設置基準は教養教育とその教育体制に大変革をもたらした。教育課程の編成方針で
 教育課程の編成に当たっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮しなければならない。
とのみ定め、旧基準にあった教養科目の必修単位数を撤廃した。また
 卒業の要件は、大学に4年以上在学し、124単位以上を修得することとする。
として、教育課程における教養教育と専門教育の割合さえも大学の自由裁量ということになった。例えば、文系の学部で自然科学についての科目を全く用意しないことも許されることになる。
 京都大学では、ほぼ同じ時期に教養部を改組して人間・環境学研究科、続いて総合人間学部を立ち上げ、教養部の組織が固有の大学院生と学部学生を教育することになった。従来通りの教養教育を維持すれば、担当教員の負担は大幅増になる。大学設置基準の大綱化は教養教育の「手抜き」を許すことになるが、京都大学はこの誘惑に抗して全教員の協力を期待しつつ教育の質を低下させないこととした。しかし、結果的には人間・環境学研究科と総合人間学部所属教員に負担増を強いた。大学設置基準の大綱化後、京都大学に続いて東京大学以外の国立大学も教養部の廃止に走り出した。文部科学省は「各大学が教養部の人的資源を使って、時代の潮流にあった新しい組織を立ち上げたのであって、教養部廃止を方針とはしなかった」と主張しているが、廃止の方向へリードしたのは間違いない。大学によって廃止の仕方は異なったが、教養部の一部を新しい組織に転換し、残りを関係学部に所属させる、教養部の全教員を幾つかの学部に分配する、などが典型的な方法であり、教養部廃止後の教養教育の担当は教養部教員の配当先が配当数に応じて担うのが普通であった。
 上記の「教育課程の編成方針」にある教養教育についての定めを裏付けするものは、各大学による自己点検・評価であったが、これは単に努力目標でしかなかった。実際、殆どの大学は自己点検・評価で何をなすべきか分からず、各種データと問題点だけを列挙する評価書はまだよい方で、自画自賛に終始するものも少なくなかった。大学審議会は平成10年に答申「二一世紀の大学像と今後の改革方策について―競争的環境の中で個性が輝く大学―」において、
 「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることができる能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置付けることのできる人材を育てる」という教養教育の理念・目標の実現のため、
と教養教育の重視を謳い、他方で、
授業の設計と教員の教育責任、成績評価基準の明示と厳格な成績評価の実施、履修科目登録の上限設定と指導などを通じた教育方法の改善を推進するに当たっては、ファカルティ・ディベロップメントと同時に、教育活動について自己評価を行うあるいは学生の評価や外部の意見を求めていくことによってその実効性を担保し、更なる改善のための材料とすることが重要である
と教育について評価の重要性を具体的に指摘した。具体的には、自己点検・評価の実施及びその結果の公表を大学の義務とし、学外者による検証を大学の努力義務として位置付けることとした。評価によって(教養)教育の質を担保しようとする意図が見て取れる。
 しかし、設置基準の大綱化、教養部廃止から平成10年の答申を受けた設置基準の改定(平成11年)への過程で設置基準の大綱化に「悪乗り」して、教養教育の内容を弱体化させた大学が多かったのも否めない。国立大学に義務づけられた大学評価・学位授与機構のテーマ別評価に教養教育が挙げられたが、教養教育の中身まで踏み込んだ点検は行われず、システムと態勢の評価に重点が置かれたようで、教養教育の手抜きの実態について認識が不充分であると思う。


 法人化後の教養教育

 国立大学の法人化の功罪をどう評価できるか、少なくともこれから数年の実績を見る必要があろう。しかし、法人化に進む過程で大学のあり方について激しい議論があり、強いられたこととはいえ中期目標、計画を用意したことは、多くの大学人に大学教育、特に教養教育について深く考える機会を作ったことは事実であり、法人化の積極的な側面として評価すべきである。この議論の中で教養部廃止後の教養教育のあるべき姿について、教育組織と教育課程の両面から検討が進んだ大学が多い。これまでの経緯は一旦白紙にして、全学出動態勢を前提として教養教育を再構築する方向に進まざるを得ないものと考えられる。
 高等教育の内容、システムの改善は国立大学の法人化を検討し始める以前に殆ど準備されていたと言ってよいだろう。むしろ教育改善の議論と結論が財政的効率化、行政改革と共に国立大学法人化の契機の一画を占めたとも考えられる。こうした見方については、上で一部引用した平成10年の大学審議会答申を改めて読み直してみると腑に落ちる点が多い。国立大学の法人化が確定した平成14年末の学校教育法の改正で、設置認可の範囲の緩和と大学の定期的な認証評価が義務づけられた。設置認可がなく基準評価(accreditation)で大学が大学として確立していくアメリカにおけるものとは意味が違うであろうが、大学における教育について社会的説明責任を明確にするものである。各大学はその教育について不断の自己点検評価と認証評価を義務づけられ、改善を求められることになった。教養教育が学部教育の半分を占め、その充実が叫ばれる中、大学によっては教養教育の内容を半減させてしまったが、改めて本来あるべき姿を模索し、実現させていかなければならない。教養教育の責任は重い。
 国立大学法人への国からの資金は運営費交付金として支給される。今年度の運営費交付金の支給実態を各大学が固唾をのんで注視していたが、予想以上に厳しい現実に呆然としている大学人も多い。非公務員型で法人化したために、教職員に関わる労働、労働安全衛生の法律が別のものになり、それに伴う費用が案外馬鹿にならないこと、教職員の給与、取引業者への支払いが民間企業と同等になり、銀行振り込み費用がかかる、種々の事故、障害についての賠償が国家賠償法の枠からはずれたため、多額の保険費用が必要なことなど、京都大学の場合で校費(教育・研究費)の7%近くをこれらの費用に投入しなければならないことになった。校費は水光熱費、非常勤職員給与など固定的経費を含んでいるので、教育研究の現場での予算カットは少なくとも十数%、分野によっては50%以上に及んだところもある。研究第一に考える大学教員が多い実態を考え合わせれば、このつけが教育に回ることは想像に難くない。
 これまでの国立学校特別会計とは違った予算措置のため、制度の運用に思い掛けない齟齬が生じているものもある。典型的な例は、財務省が「非常勤講師手当は人件費全体の中に組み込まれている」と主張するのに対して、通常の人件費とは別枠で措置されてきたこれまでの制度が対応できなくなっている。専任教員の負担を増やさなければ、この事態もまた、多くの非常勤講師に頼っている教養教育(京都大学で全非常勤講師の40%)は質の低下に繋がりかねない。
 法人化と直接の因果関係はないが、大学生の学力の低下、幼児化により、大学初年級で本来の教養教育が機能しなくなっている。高等教育の大衆化と、「ゆとり教育」の負の側面が大学に及んだということであろう。さらには、受験地獄に対する社会的批判をかわそうとした文部科学省と入学志願者確保に汲々とした大学が入学試験の軽減化に向かったことが、学生の基礎的教養の低下を招き、学生が教養そのものを理解せず、教育に期待するものが変質している。実際、学生達が功利的になっていて、教養教育でも実利を求め、資格獲得などを要求する学生も少なくない。
 法人化した国立大学は外部資金獲得に血眼になっており、優秀な学生を確保して大学の評価を挙げることは至上命題である。加えて全入時代を迎えた大学の競争は熾烈なものになると思われ、そういう状況だからこそ、大学が入学試験の意味を考え直す時期である。さらには、平成18年度入学生から学力低下が益々進むと思われ、専門教育を受けるに充分な基礎学力と豊かな人間性を涵養する教養教育がどうあるべきか、またどこまで可能か、解決しなければならない問題は多い。
(京都大学副学長・高等教育研究開発推進機構長・京都大学大学院理学研究科教授)



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