環境にとって経済とは

白川 直樹



 経済活動が環境の破壊者として敵視されるようになったのはいつごろからだろうか。公害対策基本法に経済調和条項が盛り込まれ、議論のあげくに削除されたのは1967から1970年の出来事であった。レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』の出版は1962年、水俣病の発見は1956年のことである。20世紀半ば過ぎという時期は、経済と環境の衝突が各地で浮き彫りになり「環境問題」が経済活動と生活環境の矛盾という構図で一般の意識にのぼりはじめた時代であるといえる。
 経済主体が環境を考慮に入れないで行動するために起きる環境破壊、いわゆる外部不経済の概念を論じたピグーの『厚生経済学』は1920年に初版が出されている。ジョン・ミューアが環境保護団体シエラ・クラブを設立したのが1892年、ヨセミテが自然公園として認可されたのが1864年、ソローが『森の生活』で経済活動と一線を画した自然の中での生活の意義を唱えたのが1854年と、環境に悪影響を与え破壊するものとして経済活動を捉える見方は世紀をこえて遡っても見出すことができる。田中正造が渡良瀬川の鉱毒問題を国会で糾弾したのは1891年のことだった。
 さて、1915年に内務省は水力発電者に「漁梯」(取水堰を魚が上下できるようにする施設、現在は魚道と呼ぶ)の設置を指示している。また1896年に公布された旧河川法の第十九条には「流水ノ清潔」という語句が現れる。これらは川の魚や水質に配慮して経済活動を制限する規定であるが、前者は内水面漁業、後者は農業用水をはじめとする各種利水者の保護を念頭に置いていた。ここにあるのは「産業=経済」対「生活=環境」という対立軸ではない。魚や水質といった環境要素を対象にしながら、焦点はあくまで産業間の利害調整にある。渡良瀬川の鉱毒問題も洪水によって話が複雑にされているが、根本にあったのは足尾銅山と下流農業の利害相反であった。
 このように、環境をめぐる対立は産業活動対生活環境の構図で顕在化する以前から、産業間の利害衝突という形で現れている。経済活動にとって環境は、(1)経済活動の外部にあって分析に乗らないものとして無視されるか、(2)有用な資源やサービスの提供者として利用されるか、(3)経済活動を量と質の面から制約する要因として厄介者扱いされるか、のいずれかであった。(2)の有用性の奪い合い、またはある主体の(1)または(2)による行動の結果が他の主体に(3)の制約要因をもたらしてしまう場合に環境をめぐる衝突が起きたが、話が産業間の調整にとどまっている限り「金銭収支」や「資源の効率的配分」といった共通概念、互いに理解し納得して受け入れ合うことのできる価値基準が存在し、いわば同じ土俵上の勝負が可能である。このとき環境は必ずしも経済と全面対決する存在ではなく、各経済主体がもつ環境とのかかわりの濃淡を評価して調整することが環境マネジメントの役割となる。
 さて、環境問題の発生を経済活動の側から眺めると、3つの要因が浮かび上がってくる。1つめは、人間活動が近接すると互いの行動の影響を受け合うようになるという点である。川沿いの2つの工場が遠く隔たっていれば問題が起きなくとも、すぐそばに並べば下流側の工場は排水の影響を受けてしまう。このように互いの影響は非対称なことが多く、原因者と被害者、費用負担者と受益者の不一致がしばしば問題解決の壁となる。
 2つめは活動規模である。時間・空間的に小さな活動であれば、人為攪乱は自然環境それ自体がもつ変動に隠されて顕在化しない。活動規模が大きくなると環境インパクトも増大し、自然変動の範囲を越えた不可逆な変化が起こるようになる。このとき湿潤高温な地域や自然変動の激しい地域では環境自身のもつ回復力や対応力で大きな攪乱にも短い時間で対処できるが、ヨーロッパやオーストラリアのように半乾燥で安定した地域ではひとたび破壊した自然はなかなか元に戻らない。ヨーロッパで自然環境保護の取り組みが早くから進んだ背景にはこうした風土の性質も作用しているだろう。オーストラリアの河川では、大規模かつ徹底的な流域外導水によって生じた河川地形や水域生態系の変容が現在大きな問題となっている。
 3つめの要因は、人間活動の高度化による人間自身の変化である。ある程度の安全と快適性を手に入れた人類は、次なる局面で環境の良好さを希求する段階を迎えた。悪い環境は我々の身を脅かし、心身の快さを損なうからである。その意味で環境はモノやサービスと質的にそう差があるわけでなく、個人の効用を高める1つの要素としてそれらの延長線上に存在する。産業活動に伴う環境汚染や人間活動の拡大による自然破壊など、環境の財としての価値(希少性)を高める事象もこれに拍車をかけた。
 これらの要因があいまって、産業活動間、そして産業と生活の間に環境をめぐる摩擦を生むこととなる。その中間には、経済活動でありながら生活と不可分に結びついている農業や漁業といった部門の紛争もあった。
 こうして起きる衝突を解きほぐすには何が必要だろうか。まず産業間についていえば、原因の特定と物量ベースでの定量化、影響の貨幣ベースでの定量化、そして社会全体として大きな無駄が生じないような費用分担方法の探求と実現、といった手順が有効であろう。環境を記述する手段として経済学の活躍の場がここに見出される。
 一方、人間が追求する効用の一部としての環境、という見方では、人の意識や心理といった要因が大きく効いてくる。生活や生業を巻き込んだ利害調整では、同じ価値基準のもとで「定量的に」問題を解けばよい産業の場合と違い、相異なる価値基準をもって「定性的に」対決する各主体を納得させうる解を示さねばならない。これはいかにも難儀な仕事である。
 この不幸な価値観の溝を埋めんとする努力は各方面から盛んに試みられている。経済側から歩を進める環境経済学、「人間」の側に立つ環境倫理、環境教育、環境心理、環境社会学等々、そして環境そのものの自然科学的性質に糸口を見出そうとする方法などである。環境経済学はさきほど述べた環境の経済的側面の記述に力を発揮する。「人間」からの取り組みは経済論理から抜け落ちてしまう部分にスポットライトを当て、個々の人格を尊重した改善策を提示してくれる。自然科学的なモデルはこの世界が全体としてどの方向に向かっているのか、またどういった因果関係が環境変化を支配しているのか我々に教えてくれる。
 しかし、経済と環境、そしてそれに深く関わる人間という三者三様の価値基準のせめぎあいをマネージするには、もう一段階メタな立場から問題を俯瞰することが必要である。それは、どれにも属さない新たな価値基準を打ち立て、それに三者を従わせていくという意味ではない。むしろ3つの立場に入り込み、各価値基準を上手に使い分けながら現実の問題を処置していくという方向である。
 環境の価値という問題を考えてみよう。環境経済学ではこれを利用価値と非利用価値に分類し、さらに後者を将来利用する可能性のあるオプション価値や心理的効果を表す存在価値などに分けて計測していく方法が現在主流となっている。しかしこれらはいずれも経済活動に反映される価値や人間が意識する価値を示すに過ぎず、環境がもっている価値の一部しか評価できない体系になっている。これは当然のことで、経済だけで環境のすべてを表現できるはずがないし、またしなければならない必然性もない。
 環境は3つの経路を介して人間に価値をもたらす。直接身体に働きかけ、心情に働きかけ、そして経済システムを通して人間と接触する。これを踏まえ、環境のもつ価値を4つの面から捉えることができる。第1に「モノ」としての価値、資源として消費される環境。第2に「場」ないしは空間としての価値。第3に人類存続の物理基盤を整えてくれる「機能」の価値。そして第4に「存在」が人々の心を豊かにし快さを感じさせてくれる価値である。「モノ」としての価値には経済学的な評価手法がよくなじむだろう。「場」の価値もレクリエーションの費用や地価の観察などにより一定の貨幣換算が可能である。これに対し「機能」の価値は経済評価しても説得力をもち得ないし、「存在」の価値も人間側の要因に大きく左右される。これらの価値を論じるには自然科学や人文科学の助けを借り、それらの言葉でもって表現しなければならない。そして最終的な総合評価に結論を出すのは各人の良心的判断力に任されるというほかなく、万人を納得させる客観的で唯一の解など望むべくもないのである。
 複雑な自然環境、そして複雑な人間社会のすべてを単一の価値基準で割り切ろうとするのは無理であり愚策である。それぞれに異なった特性を活かして憂鬱な現実を改善し、総合的により適切な解決に近づけていこうとする努力こそ人類の叡智が最大限に発揮される場面ではなかろうか。
 では、環境経済学の強みとは何であろうか。それは数学に裏打ちされたその頑健な経済論理にある。高尚な環境倫理を持ち合わせない人間でも、いやむしろそんな人間ほど、自らの経済的利害には忠実に従って行動する。すなわち人間の行動を説明し支配する力が経済論理には備わっており、これを逆用すれば環境観念の薄い人間にあたかも環境配慮をしているかのような行動をとらせることができるのである。環境税、課徴金、環境補助金、汚染権取引などの「仕組み」がこれに当たる。仕組みをうまく作るだけで大勢の人間が環境目的に適う行動をとるようになるのなら、これを利用しない手はないだろう。
 ただし、この手段はあまりに強力なので、貧困層や地域格差などの公平性、文化、心理規範その他の社会影響といった「環境」および「人間」に与える影響を見極めながら行使する必要がある。経済論理のもつグローバルな面を押し立ててローカルな価値を踏み潰す愚を冒してはならないが、国際機関による総合河川開発など資源やエネルギーに関わる分野では伝統的な秩序に基づいた地域社会の安定を脅かす可能性も危惧されている。
 環境にとって経済は、環境の一側面を記述する「経済学」であり、環境に働く外力たる「経済活動」であり、環境目的達成の戦略的手段として利用すべき「経済メカニズム」でもある。人間活動がこの段階まで到達してしまった以上、もはや環境と経済の対立を完全に消し去ることは夢物語にすぎない。理想像を胸に抱いて元気を出すことも必要だが、現実の深刻かつ緊急な問題には、論理的でシンプルな合理性ではとても太刀打ちできない。むしろ、誰もが少しずつ妥協をし、異なる価値基準の並存を認め、利用するものは利用する、といった迂遠なやり方こそが現実を改善に導いていくのもまた事実なのである。
(筑波大学機能工学系講師)



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