古書のある風景 2

面沙(ヴェール)の向こうの廃墟

村井則夫



 書物を数える単位としては、通常「部(コピー)」という言葉が用いられる。書物というものは、それが印刷本である限りは複製品でありコピーであるという、グーテンベルク以来の事実が、その言葉にしっかりと刻み込まれている。書物に挿入される挿絵にしても、銅版画や木版画という版画である以上は、これもまた基本的に大量生産品であり、コピーである。印刷刊本に関しては、挿画も含めて、印刷(プリント)と複製(リプリント)の区別は意味を成さないようだ。
 しかし、18世紀の書物には複製品としての書籍の系譜から逸脱する要素がいまだに含まれている。それが手彩色版画という存在である。18世紀にはカラー印刷の技術が発明されていなかったために、線描のみの銅版画に職人が水彩で一つ一つ色付けを施すことで、彩色図版が作られていた。これが手彩色と呼ばれる手法である。元になる版画そのものは複製品であるが、それに色を塗る段階で、職人の「手」の技が加わり、一点一点の仕上がりが微妙に異なってくる。複製であるはずの印刷本に、こうして再び工芸品に傾斜していく要素が付加されることになる。
 この手彩色版画を手に入れてみようと思ったのは、イギリス美学のことを調べている過程のことであった。イギリス美学では、「美」と「崇高」と並んで、「ピクチャレスク」という概念が重要な役割を果たしているのだが、その正体がどうにも見究めがたい。ピクチャレスク風の風景画なるものも、研究書などに複製が挿入されていることがあるが、それを見てもどうにもその核心が判然としない。そして、この図版がほかならぬ手彩色で描かれたものだということを知ったことで、いよいよその「現物」を手に入れようという意欲に火がついた。具体的には、ピクチャレスク美学の実践として有名なウィリアム・ギルピンの著作を捜すことになった。
 「ラスキンの時代に先駆けてラスキンの仕事を始めた」と言われるギルピンは、18世紀の旅行ブームの波に乗って、旅行ガイドの体裁でワイ川や湖沼地方などの地誌を記し、手彩色の挿画を入れた書物を何点も公刊している。その手彩色の風景画では、楕円の中に穏やかな風景や、人影のない廃墟の光景が描き込まれ、しかもその全体がほんのりとセピア色を帯びている。このセピア色こそ、版画にあとから色付けされた手彩色によるものである。けっして華やかな色彩ではない。むしろきわめて渋い色合いで画面全体が淡く覆われ、靄のかかったような独特の雰囲気を作っている。それは風景の前にかけられた一枚の面紗(ヴェール)のようなものである。画面に漂う「空気感」とでも言うべき浮遊する皮膜(アウラ)の感覚が、おそらくはピクチャレスク(絵のような)と呼ばれる独自の美的感性(テイスト)の中核なのだろう。こうした雰囲気を見ると、晩年のターナーの水彩画などにも共通する感覚がほのかに浮かび上がってくる。ペブスナーが『英国美術の英国性』で語っていた「絵のように美しい英国」というわけだ。このような独特の質感(アウラ)が印刷による複製では伝わってこないのも無理はない。
 このピクチャレスク関係の書物を手にして気づいたことがある。これらの手彩色の版画は、あとから色を乗せているために、長い年月のあいだに反対側の頁にその色がかなり鮮明に移ってしまっている。古書店主に尋ねると、この時代の手彩色本では避けられない現象だそうである。最初はその状態を残念に思ったが、印刷技術という面から見るとこれはなかなか示唆に富んでいるということにも気がついた。それというのも、反対頁へのこの転写現象は「色移り(オフセット)」と呼ばれるのだが、考えてみればこの原理こそが、オフセット印刷として20世紀以降のカラー印刷の主流となったものだからである。後に20世紀の印刷業者ラブルが偶然のことから発見し、大量生産に道を開くに至るこの技術が、完全な複製の効かない18世紀の手彩色図版のうえでささやかに予言されているといったところだろうか。古書の実物は思わぬ連想の輪を拡げてくれるようだ。
(明星大学専任講師)



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