装丁の四季−夏

藤田嗣治の装丁

大貫 伸樹



 美大をめざし予備校に通うデザイン科の学生は、みんな水彩絵の具や木炭などを入れる絵の具箱を持ち歩いていた。その一群に交じって私は、藤田嗣治に魅了されていたのだろう、絵の具箱の内側に絵はがきを貼り、一ヶ月ごとに貼り替えて鑑賞していた。藤田の絵はがきは、1963年「つばめと子供」や1965年「赤いスカートの少女」などで、ほのぼのとして眺めているだけで心安らぐ絵だった。美術作品としては、世俗的成功や裕福な生活と引き換えに身に付いてしまった技巧主義に走ったといわれるもので、評価は高くない晩年の作であった。
 
植村茂夫『海軍魂』
(東水社、昭和18年)
装丁=藤田嗣治

 部屋の模様替えで古い絵の具箱が出て来た時の郷愁からか、最近になって藤田の装丁を集め始めた。さしあたって入手出来た本は、ほとんどが、戦車をモチーフにした草葉栄『ノロ高知』(鱒書房、昭和16年)や軍艦と旭日旗を描いた植村茂夫『海軍魂』(東水社、昭和18年)のような、従軍画家として巨腕を振るったころのもので、絵はがきからはほど遠いイメージの装丁が多く、強い衝撃を受けた。
 藤田と同じように、戦時中に苦汁を嘗めた表現者に花森安治がいる。花森は、傷痍軍人として戦地を離れて帰国し、大政翼賛会で仕事をするようになる。戦後、「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言い訳をさせてもらうなら、当時は、何も知らなかった。だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、とおもっている。」(週刊朝日、昭和46年)、と「戦争で最も悲しい思いをした女性」のための月刊誌「暮しの手帖」の編集に生涯を捧げた。
 一方、藤田は、従軍画家としての戦争絵画を描いたことを戦争協力者として過度の批判を受け、嫌気がさしたのか、日本でのつらい過去と故郷とに訣別し、1955年、69歳の時に、かつて藤田の芸術を開花させたフランスに帰化する。1959年カトリックの洗礼を受け、十字架の保護をもとめ、煉獄の図や十字架などの宗教絵画を描き続ける。贖罪を念じながら描かれた晩年の絵は、特に女子供に向けた慈悲に満ちており、忘れようにも忘れられない故国へ向けて発せられた謝罪のメッセージだったのではないだろうか。花森の「生まれた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛しぬいた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際、こんな国を愛することは、やめた。」という言葉に、藤田も同じ思いだったに違いない。
 藤田は、5歳の時に、花森は旧制高校1年の時に母を失っている。その為か、2人とも女性に許しを乞うような作品を残した。
 藤田晩年の優しさに溢れた作が、一人暮しで潤いのなくなった予備校生の精神に、安らぎをあたえ、毎日持ち歩く絵の具箱に絵はがきを貼らせるほどに琴線を揺らしたのだろう。
(おおぬき・しんじゅ/ブック・デザイナー)



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