科学する目 12

もし、ヒトがいなかったら

青木淳一



 この欄の私の動物エッセイも最終回を迎えた。今までに、生物の名前、種類、足の数、走る速さ、雄と雌、騙しのテクニック、熱帯林の夜、一緒に暮らしたい動物、家庭害虫、都市の生きもの、直立二足歩行などのテーマで書き綴ってきた。いろいろな生物のおもしろさ、不思議さ、ヒトとの関わりなどを通じて、逆にヒトとはなんだろうという疑問を提出してきたつもりである。
 今から約46億年前に地球が誕生し、35億年前頃に初めて原始生命が出現した。その後、生物は進化を遂げ、着々と種類を増やし、地球は生命に満ち溢れる緑の星となった。当たり前のように思われているが、これはいくつもの条件が偶然に重なって生じた宇宙の奇跡なのである。そのような星に自分が生まれ出てきたことに、まずは感謝しなければならない。しかし、1億種以上いると言われる地球上の生物の中のたった1種であるヒトという生物が、ここまで進化し、文明を発達させ、地球の表面を変化させてしまったことも、また奇跡に近い。造化の神はそのことを予測しなかったのであろうか。
 もし、地球上にヒトが現れなかったら、どうだったろう。地表を覆う森林面積は今よりはるかに大きく、獣は走り、鳥は歌い、蝶は舞う。湖や川の水は清らかに澄み、海辺は美しく、さまぎまな水生生物に満ち溢れる。目を瞑り、まるで楽園のようなその光景を想像するだけで、歓喜の涙が出てきそうになる。でも、それは自分たち人間がいなかった場合のことである。それを思うと情けない。悲しい。まるで自分たち人間が害虫のように見えてくる。
 「もっと自然に優しくしなければ」と、みんなが思っている。そう思いながら、ひどいダメージを自然に与え続けている。なにか人間の生活を根本的に変えなければ、という思いが強くなる。アメリカ人、インド人、アフリカ人、中国人、日本人……皮膚の色、習慣、言葉がそれぞれに異なっていて、いろいろな種類の人間がいるように思われるが、生物としては実は1種、学名ホモ・サピエンスなのである。ヒトは地球上1億種の生物の中のたった1種なのだということを、まず認識しなければならない。この地球環境の大変化、これがたった1種の生物のやることか! ヒトよりもはるかに力の強いアフリカゾウだって、ゴリラだって、こんなことはできやしない。
 人間による都市化が生物のすみかを奪っていくという。しかし、私はそうは思わない。人間が都市に高密度に集中して住むことによって、かなりの自然が救われている。今の人間に「ばらけて」住まれたら、たまったものではない。「害虫閉じ込め作戦」と言ったら怒られそうであるが、結果的にはそれでよい。富士山五合目の駐車場付近は大変な賑わいである。焼きトウモロコシにおでん、やかましい音声。人々はそこだけで騒いで富士山へ行ってきたと言う。途中で降りて美しい森の中へ入っていく人はほとんどいない。五合目だけが徹底的に破壊されることにより富士山の森林は守られている。
 それにしても、地球はヒトという不思議な生物を生んでしまったものだ。その行く末が思いやられる。ヒトの学名ホモ・サピエンス(Homo sapiens)というラテン語は、訳せば「賢い人」。その賢さが文明を育ててきたわけだが、いまや人類は本当の賢さを発揮すべきときであろう。このように偉そうなことを言っても、書いている本人は一体どうしたらよいのか、皆目分かっていないところが、問題である。
 最後に、この『大学出版』の冊子の貴重な紙面を提供していただけたことに感謝するとともに、一緒に酒を酌みかわしながら、私の心をいろいろと刺激して、筆をとる気力を与えて下さった東海大学出版会の稲英史氏にお礼申し上げたい。
(神奈川県立生命の星・地球博物館長)



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