歴史に見る福岡の書店

鳥巣 京一



 江戸期の「本屋」

 江戸期の出版業は、本屋、書物店、書林、書肆など、様々な名称で呼ばれていた。今日の本屋(書店)は販売業のみを行う業者をいうが、江戸期の本屋は出版・販売の双方を行っていた。
 出版文化の成立と発展は、寛永期以降、京都を中心として展開し、寛文期には大坂でも定着、前後して江戸でも活発化し、他の文化と同様、この三都が江戸期通じて中心であり続けた。さらに、十八世紀初頭、享保の改革の一環として同七年(一七一一)、出版条目(出版書物の検閲、板元の版権確立等)による法令の整備によって出版業はさらに盛行し、十九世紀になると、三都以外の各地や九州でも出版活動が認められるようになる。
 福岡藩では、寛政十二年(一八〇〇)には儒・医、山崎普山の『農家訓』が刊行されている。「慶応二年博多店運上帳」(櫛田神社蔵)によれば、慶応期博多には「書物店」を営むものとして、糀屋番の萬玉堂次助、新川端下の紅屋善右衛門、中島町の綿屋弥吉の三名が名を列ねている。また、「印判板行彫刻」屋が西町上の藤兵衛、新川端下の越後屋藤五郎、川端町の忠七、対馬小路町上の判屋善兵衛の四名いた。この他、福間町に泰成堂、太宰府に笹屋等という「書物店」がみられ、出版物そのものは三都大板元の整備されたそれとは違うものの、順調な発展ぶりを示すものといえよう。もっとも、こうした「書物店」が明治期に続行されたか否かについては、史料的に明らかではない。

 近代的書店の出現

 明治初期の福岡には書店が、真海書店、博文社、山崎登書店など数えるほどしかなかった。
 福岡に書店文化が根づくのは、教科書の出版、および取次・販売店が登場してからである。まず、明治十八年(一八八五)、藤井甚太郎・林斧助・古賀男夫らが共同で下名島町に星文館を設立し、教科書の出版・販売を行った。
 また、同二四年(一八九一)、大阪積善館が中島町に福岡支店を開設して教科書と日記類の販売にのりだす。この積善館福岡支店は、初代支店長の山田安蔵、二代目三田村と続き、業績を伸ばしていくが、大正五年(一九一六)に教科書商戦(真海書店の高田芳太郎ら)に敗れる。それがきっかけで積善館福岡支店は閉鎖が決まり、当時主任の八木外茂雄が在庫書籍をすべて譲り受け、同年十月に積文館支店(のち積文館書店)を開業する。第一次大戦の好景気にも支えられ、積文館は順調に滑りだす。同店は同十三年(一九二四)、広さ七十坪、三階建という洋館風の新店舗を建て、翌年(一九二五)八月には資本金十万円の合名会社となる。昭和十年版の『全国書籍商総覧』(新聞の新聞社・一九三五年)によれば、「洋館三階建の広壮なる店舗にて書籍、雑誌、文具の販売を営み、東海堂、北隆館、柳原書店、大阪宝文館と取引をなし、中教を一万五千円、国定を十校へ、千円販売する他、単行本を一ヶ月に約一万五千円に上る破天荒なる売上高あり、(中略)月に日に莫大なる利潤を挙げ、営業税百五十円、所得税二百五十円を納入す」とあり、昭和十年前後の積文館の景況ぶりが窺える。

 金文堂の興亡

 この積文館のライバルだったのが久留米の金文堂である。金文堂は、文久元年(一八六一)に菊竹儀平が開き、漢籍を販売していた二文字屋を祖とする。病弱な父儀平にかわり十八歳で経営を任された菊竹嘉市は、良書をいち早く手に入れるため関西、東京の版元を回ったとき、京都でみた金閣寺や教科書出版の雄・金港堂にあやかってその名をつけた。そこで育った弟子が独立する時は、屋号に「金」の文字を使うことを許されるという伝統が生まれた。現在でも九州各地には「金」の文字を使った書店が数多く存在し、金文会という組織が活動している。
 明治二二年(一八八九)一月、金文堂の看板を掲げた菊竹嘉市は、「薄利多売」、「経費節約」、「人物養成」をモットーに東京の博文館、冨山房といった出版社をはじめ、新聞各社、取次店などといち早く取引契約を結ぶ。販売員が九州各地をまわる外商販売方式を採用して書籍を大量に流通させるとともに、「小説買うなら金文堂」というキャッチフレーズを作ったり、博多←→久留米間の鉄道開業にあわせて時刻表を無料配布したりするなど、広報活動を積極的に行う。この時期の大書店は、小売だけでなく、書店の取次なども兼ねていたが、金文堂は取次においても手広い展開をみせている。
 こうして金文堂は明治三八年(一九〇五)に福岡県国定教科書特約店になるし、大正八年(一九一九)に結成された福岡県書籍商組合でも、菊竹嘉市が百四名を統率する初代組合長に就任する。
 この金文堂が閉鎖した積善館の旧社屋をひきとるかたちで福岡に進出し、金文堂福岡支店を開設するのは大正五年(一九一六)十一月のことであった。大正八年(一九一九)三月、同支店は株式会社となる。
 昭和二年(一九二七)金文堂は経営がうまくいかず株式会社を解散。金文会員に出資金を払い戻したうえで、新たに合名会社菊竹金文堂を設立する。昭和十三年(一九三六)四月、天神町四ツ角にあった博聞社を買収し、二文字屋書店の看板で開業するなど様々な試行錯誤を続ける。だが、やがて戦時下に内務省が示した出版取次界の一元化策によって、日本出版配給会社に強制吸収されることで取次業としての歴史にひとつの幕を降ろすことになる。

 丸善の進出

 積文館と金文堂が熾烈な営業競争をくりひろげるなか、全国的な大型書店として最初に福岡に営業所を開いたのは丸善である。丸善は明治四四年(一九一一)、九州帝国大学(京都帝国大学福岡医科大学は明治三六年に設置)が創立されたのを受けて、工科大学がある粕屋郡箱崎町(現在の福岡市東区)に出張員詰所を置いた。その後大学関係の書籍を一手に取扱うようになり、大正二年(一九一三)には福岡市上西町にモルタル二階建の店舗を新築し、同年九月には出張員詰所は福岡支店に昇格することになる。
 丸善は、こうして明治四三年(一九一〇)に開業した市内電車(大学前←→西公園、呉服町←→博多駅、福博電気軌道)に乗って街にくりだす学生を集めて、文具、書籍とともに洋品類等も販売して業績をのばしていく。昭和十九年(一九四四)の火災で店舗を失い、翌年の六月十九日の福岡大空襲で全焼する。しかしその都度店舗を再建し、同三二年(一九五七)には、九州に初めての大型店舗(五階建、延五五〇坪)を構えることになる。

 博文社の隆昌

 次に博文社は明治初期から、すでに福岡の地で書店を営業していた書店で、店主は森岡栄である。それが明治二三年(一八九〇)に出版社として事業に乗り出し、息子の森岡熊彦が跡を継いでいく。以降、この博文社からは昭和初期まで数多くの出版物が刊行されている。興味深いのは「博文社」と「森岡書店」とを使い分けながら出版活動を行っている点である。それぞれの商号については、区別の基準も史料的に詳らかではない。なお、博文社は昭和七年(一九三二)年十一月に当時の経営者・松木富士雄によって社名を株式会社博文館書店と改称され、天神への進出を果している。前掲昭和十年版の『全国書籍商総覧』によれば、「日本式二階建の堂々たる店舗にて書籍、雑誌、文具等の販売を営み、東海堂、大阪宝文館九州出張所等と取引を行い、一年間に単行本二千四百五十円、国定を一校へ二千円、中等教科書を一万五千円、文具を五百円販売する外、雑誌を一ヶ月に二千円、(中略)年平均売上総額六、七万円を算するの盛況にあり、資本金二万円、資産二万円を要する同店は微動だにもせぬ店礎の上に時々刻々隆昌に赴きつつあり」と、新店舗の状況を伝えている。

 大坪惇信堂の発展

 ついで明治二八年(一八九五)に大坪万六が佐賀市において創業し、全国有数の書店に数えられるほどに成長していた大坪惇信堂が取次業の本拠を福岡市渡辺通に移したのは昭和十年(一九三五)八月である。二六〇坪という、当時としては破格の社屋を準備した同店は、「東京出版九州共同販売所」の看板をかかげて新天地での業務を開始している。昭和十一年(一九三六)発行の『九州産業大観』(九州日報社)には、「かくて昭和十年八月福岡市渡辺通りに荷物エレベーター、自動式温水暖房其の他の最新設備を誇る新築が落成したので、卸部の本拠を福岡に移転し、今や一般書籍、雑誌、中等教科書の大取次として業界に燦然たる光を放っている同店の一大特色は、堅実な科学的経営法にして、店内の整然たる組織は模範的と定評があり、(中略)地の利と人の和に恵まれた同店の前途は殊に洋々たるものがある」と、その当時の様子を述べている。

 九州共同販売所の盛況

 昭和十二年(一九三七)、福岡に九州共同販売所が設置される。同年四月二五日付けの「福岡日日新聞」によれば、「福岡市に設立の九州共同販売所の盛況」という見出しのもと、「……四月一日開店以来、同所陳列場は多数の参読者で賑わっている。九州帝国大学の学生が、“福岡市にも斯んなに本の揃った店があるか”と驚いている。福岡市名所として読書子の是非訪れるべきである。(中略)福岡市の特約販売店は積文館、丸善書店、黒門書店其他であるが、九州及び鮮満、台湾各地方全部にあるから便利だ、東京出版所全部の共同倉庫である」とあり、同販売所の活況ぶりが窺える。また、それにともなって福岡は、九州はもとより朝鮮半島や台湾に書籍を流通させる窓口としての役割を果たすようになっている。つまり、福岡が大陸と最も近いこともあって、九州の雄都はもとより、文物交流の拠点都市となりつつあったのが昭和十年前後であったともいうことができよう。

〔付記〕本稿は、福岡市総合図書館編『「本」を創る―フクオカ出版物語―』(二〇〇三年)の一部を要約したものである。
 本稿の詳細については、前掲『「本」を創る』を参照されたい。

(福岡市総合図書館学芸員)



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