フォトグラファーの四季 秋

Bonsoir!

堀口 守



 14年間活動の中心であったニューヨークを離れ、パリに居を移したのは1992年9月。新しい刺激を求め、写真家として次なる挑戦を求めての転居でした。
ソロボンヌ大学の学生証

 まずフランスを、そしてフランス人を知ることが先決と、ソロボンヌ大学の初級語学クラスの受講を申し込んだのですが、受付係のフランス人はフランス語しか使わず、全くフランス語のわからない私は、入学書類の提出にさえずいぶん苦労したものです。ところが、その受付係もアメリカの学生が強引に話す英語にはタジタジとなり、英語で返答。さすがは自己主張の国アメリカと、改めて“アメリカンパワー”の力強さを感じ、そう言えばアメリカのモダンアートのパワーにも通じるものがあるのではと、妙に納得したりもしました。
 クラスには、アメリカ、カナダをはじめ、中南米、アジア中近東、ヨーロッパ各国から、平均年齢は22〜3歳で24人の生徒が集まっていました。ある日、クラスメート達とカフェで雑談をしていたとき、イスラエルからの学生が自国の軍事力の優位性を近隣諸国との比較表を示しながら熱弁しはじめたときには、いろいろなバックグラウンドを持つ人がいるのだと考えさせられました。
 2クラス8ヶ月で学校は辞めましたが、その間は寝ても覚めてもフランス語。長い人生の中で、この時ばかりは頭がおかしくなるほど勉強しました。
 学業に追われながらも、芸術の都パリから何かを吸収しようと、美術館、写真ギャラリー巡りも忘れませんでした。夜になり暗くなるとカメラを首に下げ、街を徘徊することもしばしば。パリを題材にした写真家達は、なにに惹かれて、なにを感じて、シャッターを押したのか? 彼らの目にはパリはどのように映ったのか? ということに思いを馳せ、壁一枚、街灯1つから新しい何かを感じ撮ろうと、真剣にシャッターを押し続けました。
 また、フランス人アーティストのグループPlur,artに属していた私は、毎週のように仲間達と安いワインを飲み、スパゲティを食べ、一晩中下手なフランス語を使っては、アートについて語り合っていました。ある時は、モンマルトルにあるFM放送局の生放送番組で、我々のグループが取材され、フランス語でインタビューを受けた事もありました。今思えば下手なフランス語で図々しく良くやったものです。こういう経験もその後の活動に大いに役立っている、と確信しています。
 3年弱という短い期間でしたが、パリでの生活で学んだことは数知れず、今でも私の心に深く、深く刻み込まれています。
(ホリグチ・マモル/写真家)

筆者の作品は以下のホームページで紹介されています。
http://www.mamoruh.com/



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