小樽文学館という場所で

亀井 秀雄



 「古書」始末の知恵を求められて

 私は2000年の6月、市立小樽文学館の嘱託館長となったが、現在、韓国の大学へ図書を寄贈する事業を進めており、送った図書はすでに7000冊を超える。それだけでなく、今年の7月からは「韓国文学展」を開催し、8月には韓国から4人、アメリカから1人、研究者を招いて「韓国文学と文化を知る」講演とシンポジュウムを行なう。
 ただし私たちは、まず初めに「文化交流」という目標を掲げて、右のような事業を始めたわけではない。実状はむしろその反対で、ことの始まりは極めて散文的だった。
 小樽文学館には、小樽文學舎という支援団体がある。30年ほど前、市民の有志が小林多喜二、伊藤整、小熊秀雄など、小樽出身の文学者の資料が散逸するのを惜しんで、文学館設立期成会を結成した。その要望を受けて、市が文学館を開設してからは、小樽文學舎と名前を変えて、援助を続けてくれているわけだが、数年前から、市民に呼びかけて本を寄付してもらうことになった。古書市を開いて、売上金で書簡や生原稿などの資料を購入し、それを文学館に寄贈するためである。おかげで文学館は小林多喜二の書簡など、貴重な資料を入手することができた。ただし、1つ困ったことがある。古書市を開いても市民が手を出してくれない本が多い。それが文学館の一室に山積みになっている。
 私が館長になって最初に受けた相談は、この本の「始末」だった。

 本が動けば人が動く

 私はこれを韓国の大学へ送ることを思い立った。私は北大の教官時代にミュンヘン大学とコーネル大学の客員教授をしたことがあり、退職後も、昨年、アメリカのUCLAの客員教授に招かれた。国立台湾大学や、オーストラリアのキャンベラ大学や、韓国の木浦大学にも講演や学会に出かけたことがある。ハーバード大学は言うまでもなく、シカゴ大学やコーネル大学、コロンビア大学、UCLAの日本学関係の図書は、羨ましいほど充実している。ミュンヘン大学やハイデルベルグ大学、台湾大学は整備途中という印象だった。それに較べて韓国の大学の図書は手薄な感を免れない。そういう所で利用して貰えるならば、小樽市民の善意も生きるのではないか。図書の価値は、それを必要とする人の手に渡らなければ生まれないからである。私は小樽文學舎の了解を得た後、木浦大学に打診をしてみたところ、喜んで受け入れたいという返事だった。
 とはいえ、文学館に溜まっている文学全集や雑誌類は、いずれも欠巻や欠号があり、これを埋めなければならない。膨大な雑書類から研究資料として意味のある本を選んだり、箱詰めしたりする作業もある。これはかなりやっかいな仕事だが、幸い市民がボランティア組織を作って、手伝ってくれている。
 こうして整理した図書を、まず3300冊ほど木浦大学へ送ったところ、総長と2人の先生が、わざわざ小樽までお礼に見えた。木浦大学では「小樽文學舎寄贈図書室」という部屋を設け、全国的な共同利用施設にした、という。小樽の市民が喜んで、翌年私も一緒に、図書室の見学を兼ねて、木浦市を訪ねてきた。「交流」はこのように始まったのである。

 「文学」フェチシズムを解く

 この間、私はこんなふうに考えていた。日本は戦後から1970年代くらいまで、空前絶後の「文学の時代」を迎え、研究者たちは「文学者」を特別視して、実生活発掘の作家研究にのめり込んでいった。全国の文学館はその時代の産物であるが、バブル経済がはじけ、文学館は自治体のお荷物となり始めている。それを承知で、私は北大を辞める時、私立大学の誘いを断って、文学館を選んだ。文学館という容れ物の中身を、新たに市民と作ってみたかったのである。
 もちろん収集された資料は、市民の思いが籠もったものであり、大切にする。だが、それと同時に、「文学の時代」の遺産として捉え直すならば、資料の新しい意味が見えてくるし、資料観そのものも変ってゆくのではないか。作家の葉書が100万円以上もする。亡くなった文学者の枕もとで、オタクめいた研究者や、文学館関係者が資料漁りをする。「作家の生涯」という物語を作ることが文学研究であり、それを物象化するのが文学館の仕事だ。そういう思い込みが、右のような悪弊を生んだのである。資料フェチシズムとも言うべき、この呪縛状態から解放されるためにも、視点転換が必要だろう。この転換が起こらないかぎり、いつまでも市民は、出来合いの物語に沿って展示された資料を「感心して」眺めて帰るだけの、受動的な立場に置かれてしまうからである。
 私は一昨年、「小林多喜二を読み直す」という連続講座を10回開き、その冒頭で「現代文学者のうち、現在最も研究が停滞しているのは、小林多喜二と宮本百合子だが、それは日本共産党がこの2人の読み方を管理してきたためだ」と言った。多喜二の地元の文学館でこのような発言をすることは、共産党をはじめ、反体制的な文学(研究)者が作ってきた「多喜二物語」に対する挑発でもあった。型通りの物語には回収できない多喜二文学の多様な可能性を引き出そうとする、この試みは、市民の共感を呼んだらしく、多い時は90名、少ない時でも70名ほどの人が足を運んでくれた。今年の2月、多喜二の生誕100年を記念する企画展を開き、シカゴ大学のノーマ・フィールド教授に講演をしてもらったところ、250名近い人が集まる盛況ぶりだった。
 ノーマさんとの縁は、昨年4月、ワシントンD・Cで開かれた学会で一緒したことに始まる。私の『感性の変革』の翻訳、Transformations of Sensibility: Phenomenology of Meiji Literatureをミシガン大学の出版局が出すことになり、それを記念する「変革の感性」(Sensibilities of Transformation)というシンポジュウムを、学会が認めてくれた。「感性の変革」を「変革の感性」とひっくり返した、主催者のシャープな批評意識と、パネラーのノーマさんが小林多喜二の『営養検査』を取りあげ、私の「無人称の語り手」という概念の有効性を論じた、その着眼のよさに、私は感心した。コーネル大学のブレッテ・デュバレ教授とノーマさんとの間で、「感性」という概念をめぐって議論が交わされる。私は自分の仕事がそのように発展させられてゆくのを喜び、ノーマさんの発表原稿を小樽文学館の館報に頂戴した。それが機縁となって、ノーマさんが小樽へ来てくれたのである。
 8月に小樽で行なうシンポジュウムには、ノーマさんの大学で、日本と韓国のプロレタリア文学の比較研究をしているサミュエル・ペリーさんが参加する。

 市民が物語を作る

 伊藤整については、今年、「林檎の文学誌」という講座と文学散歩を行なうことにした。伊藤整の『雪明りの路』は、日本で初めて「林檎の花に寄せる抒情」を定着した詩集と言えるが、「林檎」という、近代に西洋から入った果樹が、どのような経路で余市に入り、その花が1人の若者の感性を養うことになったのか。そのように関心を拡げてみると、士族の殖産や、果実の産業化という近代の歴史が視野に入ってくる。他方、林檎の実は、美空ひばりの「リンゴ追分」をはじめ、数え切れないほど沢山の歌謡曲に歌われてきた。これは日本人のどんな心性を表現しているのだろうか。もちろん私自身も文学の関係でおしゃべりをするが、これらのテーマを立てて、その方面の知識を持つ市民に講師をお願いし、既に2回行なった。市民手作りの総合的な講座を斡旋する企画と言えるだろう。
 文学館はお仕着せの物語を押しつけるのではなく、市民が自分たちの物語を作る場所なのだ。このように発想を転換して、昨年は「小樽・札幌 喫茶店物語」という特別展で、文学青年の情報交換の場でもあった喫茶店の雰囲気を再現し、続く「小樽 博覧会の時代」では、小樽で5回開かれた博覧会の記憶を掘り起こし、現在は「小樽 市場物語」で、市場感覚の交流を復活しながら、同じく記憶の掘り起こしを行なっている。

 「場」の多様性を求めて

 小樽はこのように、市民と色んな夢を描くことのできる場所なのだが、東京や札幌の人にはそう見えないらしい。時々同情半分、憐憫半分のニュアンスで「ずいぶん不便な所に拠点を移しましたね」と訊かれる。それに対しては、館長就任の際の講演「中野重治と北海道」の、次の言葉が答えとなるだろう。「例えば小樽という地域はどういうトポス、つまり場所なのか。そう問いかけられた時、多くの人は日本列島を頭のなかに描きながら、この日本列島の北方に位置する島の、一つの港町として説明するのではないか、と思います。それは日本という国の枠組みのなかで小樽の地理的、経済的、文化的な位相をとらえていることになるわけですが、しかし、なかには、主にサハリンやウラジオストクとの関係で小樽の地理的な位相を考える人もいるかもしれません。」「私たちはついうっかりと、東京というか「中央」というか、とにかく中心化されたトポスで起こった出来事を歴史的な事件として意味づけ、自分のトポスの出来事もそれとの関係を探しながら、歴史的に整理したり、意味づけたりしてしまう。」「このように、一つの地域というのは、誰がどのような関心で、どこと比較するかによって、さまざまな側面をあらわしてくる。ですから私たちがクロノ・トポスという認識を大事にしようというのは、一つの枠組みのなかで、ある特定の地域との比較によって見出した特徴だけを、自分たちのトポスの「本質」として固定してしまうのではなくて、枠組みを変え、多様な比較対象を設定することによって、このトポスの多元性を明らかにし、その豊かさを再発見しようという、学問的な目的があるからです。」
 かつて北海道では、北海道文学論が盛んに行なわれ、強靱な自我、リアリズム、反権力的性格などのコンセプトによる、北海道文学全集が刊行された。それは風土が育んだ文学の独自性を宣揚する運動であったが、そのコンセプトから分かるように、既成の近代文学(史)観に依存し、むしろそれを補強するものでしかなかった。ばかりでなく、そのコンセプトをカノン化した結果、かえって停滞を生んでしまった。「場」の多様性を掘り起すことは、そのカノンを相対化する試みでもある。
(2003.6.30)

(小樽市立小樽文学館館長)



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