伝統中国における出版文化

井上 進



 伝統中国、すなわち前近代中国の出版文化といえば、まっさきに語るべきはその先進性、少なくとも世界の他のどの国におけるよりも、長く豊かな歴史をもっている、ということであろう。出版という言葉を印刷物の発行と解すなら、印刷術を世界に先駆けて発明し、実用化したのは中国であった。中国では10世紀、宋代から印刷本の時代に入り、営利出版も盛んに行なわれて書籍が社会に「普及」した、などとは一般的な中国史の概説書にも往々記されるところだし、じっさいそのようなことを述べたとしても、それは格別誤りというわけではない。
 このことにちなみ、私は昨年公刊した小著(『中国出版文化史』名古屋大学出版会)の序において、友人が経験したこんなエピソードを紹介した。米国のある大学でご自慢の蔵書を展示する催しがあり、それを見に行ってみると、15世紀後半に出版されたインキュナブラ(欧州における最初期印刷本、揺籃期本)が麗々しく並べられている。すると一緒にいた中国人がぼそり、「要は明版だろう?」と言った、というものである。15世紀後半というと、中国では明代中期の成化、弘治年間くらい、もとよりこのころの本となれば、中国でも古版、善本として扱われはするが、大騒ぎするほどのことはない。宋元版に較べれば、たかだか明版にすぎぬからである。ところがこの話を読んだある英国人女性は、これまた私の友人である日本人の夫に向かって、「馬鹿にしている」と憤慨されたそうである。西欧人ないし西欧文化を馬鹿にするつもりなど、私にはむろん微塵もないのであるが、この話にはそのような誤解を生む毒が、やはりいくぶんかは含まれているのだろう。
 毒があろうとなかろうと、たしかにインキュナブラは明版である。これは否定しがたい事実であり、中国の出版文化がもっていた先進性を端的に表すものである。もっとも理屈と膏薬はどこにでも貼りつくというやつで、中国の先進性などと言うと、何かしら難癖をつけ、それは現象としては優れているかに見えるけれど、そんな外面にさしたる意味はなく、本質的には劣っている、などという話がたちまち出てくる、かつてはたしかにそうであったし、今でもそうした傾向が、完全に払拭されているとは言いがたい。
 たとえばヘーゲルは、中国人ののこした厖大な歴史叙述、世界に類を見ない質と量の史学遺産を、何の理屈もなくただ書いただけ、「世界精神」から見ればもっとも幼稚な、即自的な段階のものにすぎぬといい、今でもヘロドトスが「歴史の父」、「西欧にとっての」ではなく、普遍的な意味で「歴史の父」であったりするのがこれである。しかも驚くべきことに、こうした偏見は西欧人のみならず、西欧の知の取次店、ないし総代理店といった趣きの日本人にも共有されていて、グーテンベルグによる「印刷術の発明」などという神話が、今でもけっこうまかり通っている。
 そうした人々に中国の印刷術をもち出せば、それは木版印刷であって活版印刷ではないと言い、ならばその活版印刷も中国で、宋代の11世紀に発明されたのだと説明すれば、それは金属活字ではないと言い、実のところ金属活字も13世紀の朝鮮で発明されており、14世紀の金属活字本になれば、実物さえ現存していると言えば、しかしそれはプレス機を用いたものではないと納得せず、要するにそれはヨーロッパでないから駄目、とでも言いたげなのである。二千年にわたって知の規範を外に求めつづけている――じっさいそれは我々の宿命である――日本人というのは、ちょっと油断するとかくまで奴隷的になれるのだと、いささか感慨これに繋らざるをえない。
 中国で活版印刷がさほど行なわれなかったのは、紛れもない事実である。しかしそれは、一昔前の和文タイプが欧文タイプほど便利でなく、普及もしなかったのと同じで、漢字の使用という問題があったこと、その上更に紙型の技術がないとなると、大量複製という印刷の根本目的にとって、活版の有効性はついに木版に及ばないためであった。したがって今日、朝鮮(韓国・朝鮮)人の学者が誇らしげに語る高麗、朝鮮王朝の活版印刷文化についても、一面ではたしかに誇るに値するものであるのだが、もう一面では、書籍需要の少なさ、ほとんど賜与専門の少部数出版で、書物の供給がだいたい間に合ったという、そういう事情も考慮されてしかるべきなのである。わが国でも17世紀前半、ほぼ慶長から寛永にかけて、朝鮮活字版に倣った活版印刷がやや盛んになったのは、この時期になって書籍需要が大きく伸び、もはや手写しだけでは間に合わなくなっていたと同時に、その需要はなお限られたもので、木版より速く出版できはするものの、少部数印刷にしか適さない活版の方が、むしろ都合よかったからに他ならない。

 中国の出版文化がたどった長い歴史、そしてその豊かな内容を具体的に述べるのは、この小文のよくするところではない。よってここでは、かつてあれほど明らかな先進性を示した中国の出版文化が、どのようにしてその輝きを失うに至ったのか、という問題だけを少し考えておきたい。
 印刷術と並ぶ中国の世界史的大発明、紙、羅針盤、火薬は、それが西欧にもたらされるや、たちまちにして「近代」を生み出す巨大な動力となった。羅針盤のない大航海時代とか、火薬のない西欧の軍事力などというのは、語るもナンセンスである。同様にして印刷術も、西欧においては「近代」を準備するきわめて強力な道具となった。フランスの啓蒙思想家コンドルセは、印刷術こそは(西欧)諸国の教育を「あらゆる政治的、宗教的束縛から解放」した、とまで言っている。
 実のところ、印刷という技術がイデオロギーを一変させた、などというのははなはだしい飛躍であって、それはちょうど「インターネットが世界を変える」といったフレーズみたいなもの、とてもそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。しかし印刷術が「西洋文明がかつて手にしたうちで最も強力な道具のひとつ、……西洋人がこうして世界を支配するための最も有効な手段のひとつ」となった(リュシアン・フェーブル『書物の出現』序、長谷川輝夫訳)のは、たぶん間違いのないところであろう。ならば西欧においては「近代」創出の「最も強力な道具のひとつ、……最も有効な手段のひとつ」となった印刷術は、伝統中国において、なぜそうした作用を発揮しえなかったのか。
 大きな可能性を秘める道具が、実際にどれほどの作用を発揮しうるかは、その使い手の問題である。中国において印刷術を出現させ、その利用者となったのは「士大夫」であった。士大夫とは「なによりもまず、知識階級であ」り、「いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳的能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるような、そのような人々」(島田虔次)である。
 彼ら士大夫は、かつてのきわめて閉鎖的な貴族ではなく、社会に対して開かれた選良、知的=道徳的能力という普遍的尺度によって、全人類(と想定された範囲)から選び抜かれたエリートと自負していたがゆえに、かつての貴族のごとく、書籍ないし文化を極端に狭い範囲で独占しようとはしなかった。今や成功への階段は万人に開放され、そしてすでに発明されていた印刷術は、いよいよ本格的に実用化されることとなる。
 理念として言えば、彼らはたしかに開かれた支配階級であった。しかしながら、既に特権を享受するようになった彼らは、自らの特権を保証するゆえん、すなわち知的優越性をわざわざ平準化しようとはしない。かくて大量複製技術たる印刷術は、文化の俗化を嫌う知的選良から、往々にしてひどく冷淡な言葉で批評された。写本の時代、人々の学問はしっかりしており、そのテキストもよいものであったのに、出版が盛んになってからはすっかり駄目になってしまった、とは十二世紀の学者、そして大蔵書家でもあったある人の述べるところだが、こうした発言は決して彼だけの、また宋代だけのものではなく、前近代を通じ、一貫して堂々たる正論でありつづけた。
 書籍は士大夫なるものの開放性ゆえに、社会に開放されて印刷本を本格的に登場させたのであるが、同時に士大夫がもつ閉鎖性は、その開放の徹底化を許さなかった。書籍の、特に印刷本の「普及」は、宋代はおろか明代の十四、五世紀になっても一向に実現せず、書籍世界における写本の地位は、相変わらず重要なものでありつづける。考えてみれば、これはわが国でも似たようなものであって、平安より室町にかけて、仏典その他の典籍はまま出版されていたけれど、当時はまったく写本の時代というべきだし、真正の印刷本時代に入った江戸時代でも、世に行なわれる書物はすべて印刷本になった、などと言えば事実を去ること十万八千里、とんでもない間違いである。
 印刷本が写本を圧倒し、書物といえばほぼ印刷本となるのは明末、十六世紀後半くらいからである。この明末という時代は、雅なる士(士大夫)ではない、俗なる庶(平民)がしだいに台頭し、伝統的価値観が激しく動揺した時代であった。そして士による文化の独占が破れはじめたまさにその時、印刷術に対する新しい評価が登場しはじめる。古代の竹簡の書物と今の印刷本を較べれば、その優劣は「十百倍どころか千万倍の差」、少なくともこの点について言えば、現代人は古代人よりはるかに幸福である。こうした異論は、むろん少数の人の唱えるところでしかなかったけれど、必ずしも孤立的とは言えず、明末数十年の間には、明らかにひとつの潮流になろうとしていた。
 だがにもかかわらず、こうした人々の中から、コンドルセはついに登場しなかった。問題を極大化して言うなら、中国はついに自力で「近代」にたどりつけなかったからである。ではなぜそうなったのか。これは大きな、回答の難しい問題であって、ここで自らの考えを述べる用意は遺憾ながらない。ただコンドルセは登場しなくても、その一世代、ないし数世代前くらいには当たりそうな人々が登場していること、これはやはり注目すべき事実であるし、明末の出版文化がはらんでいた可能性の、その一端を示す現象でもあるだろう。

(名古屋大学大学院文学研究科教授)



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