大学出版部協会の歴史的展開

渡辺 勲



 大学出版部協会(以下、協会と略す)は、いま変わろうとしている。この小文の主題はもともと「では、どのように変わるべきか」を考えることであった。そのためには「協会のいま」を確認することが前提的作業となる、と考えた筆者は、対象の二つの足場である大学と出版界を視点に据えた歴史分析と環境分析を、まず試みようとした。しかし誠に遺憾ながら、もっぱら筆者の力不足のために「前提的作業」すら十分に果たせないまま与えられた紙幅を費消してしまった。何卒お許しいただきたい。続編の機会を得て、必ず当初の目標に再挑戦したいと思う。
* 以後とくに断らない限り、出版界関連の諸数値は出版科学研究所編『年報』によった。また高等教育に関する記述は全面的に天野郁夫先生の諸著作に依存している。小文の性格から細かい注記を省いたことを、先生と読者の方々にお詫び申し上げお許しいただきたく思う。なお先生の最新作『日本の高等教育システム』(東京大学出版会、二月刊)は感動的な労作である。強く推奨させていただく。

 大学出版部協会の創立

 協会は1963年6月11日、8大学出版部と2学術文化団体を糾合して誕生した。『大学出版部協会35年の歩み[年表]』(以下、『年表』と略称)の、創立時の記録は充実している。ところが創立直後から協会は事実上の休眠状態に陥ったのか、協会活動らしい記事はなく、すぐに「一九六七〜七〇年の間は、大学紛争の影響残り協会の活動もほぼ停止する。」につながる。創立後約7年間の協会は、存在すれども姿は見えず、の状態だったと推測されるのだ。しかし協会創立時を含む1960年代は実に興味深い時代だった。「何故この時期に協会は成立したか」を解く鍵も、第一次安保後の高度成長のただ中で新幹線が走り始め、高速道路網が東京を変え国土を踏み拉きながら拡大し、東京オリンピックに国民が酔いしれ、大学進学率が60年10.3%、65年17.0%、70年23.6%へと膨張していった(エリート大学の急激なマス化と学生数の激増)、正にこの時代の諸矛盾の中にあったはずだ。そして大学が孕んだ矛盾は複合化し、一旦はいくつかのタイプの大学紛争として激発する。
 さて、出版業界の1960年代を「書籍」の量的拡大の面から一瞥してみると、60年平均価格259円が70年には529円(204%、物価上昇)、販売部数14601万冊が47159万冊(323%、市場拡大)、そして販売金額は何と374億円から2246億円(600%)へと、驚異的な伸びを見せている。物価上昇もさることながら、それ以上に書籍市場の拡大が激烈だったことが分かる。この現象の背景にエリートからマスへの大学の変化・拡大が存在したことはまず間違いないだろう。そして、協会もまたこのような二つの要因に支えられて誕生し、発展期としての70年代を準備することが出来たのである。

 成長型環境変化と協会の「発展」

 8大学出版部で出発した協会(2学術文化団体は退会)は1970年代に新たに6大学出版部を加え、14大学出版部を擁する出版界でもそれなりに存在感のある一業界団体へと発展した。さらに『年表』によると、72年「初めての共同目録」(営業部会活動の嚆矢)が出現し、73年「第一回研修会」スタート、77年「第一回編集部会」開催、となる。つまり70年代は今日に至る協会活動の原型を創造しその内容を充実させた時期でもあった。まとめて言えば、協会はこの期に「質的成長を伴う量的拡大を実現した」のである。
 出版界に目を転じると、この10年間が業界秩序の再編期であったことが窺える。にも拘らず狂乱物価や円高不況等で不安定な経済状況が続く中、書籍販売金額71/80年比278%に象徴されるように市場は拡大の一途をたどり、その故にと言えるに違いないが、克服すべき課題を先送りする癖を体質化したのも、この時期だったと思われる。
 高等教育システムが急激な規模拡大をみせるのも、この時期である。70年に23.6%だった大学等進学率は75年38.4%、80年には47.2%に達して、以後ほぼこの水準に高止まる。一方で18歳人口は80年代160万台へと増え続けていたから、大学生実数のこの時期の増加振りは並みのことではなかった。この傾向は実は、92年18歳人口のピーク205万に向かって、80年代いっぱい継続する。
 大学生の希少性は既に60年代に失われていたが、この時期には大学はマス化を超えてユニバーサル段階(高等教育と社会との境界がほとんどなくなる)へと移行しつつあった。その担い手はマス化同様もっぱら私立大学で、急増し続ける学生数の約9割を吸収したという。必然的に私学助成規模は拡大し、合法的「水増し定員」は恒常化したが、問題意識を含めて旧態を依然とした国立大学の「現場」はもとより、高等教育システムの質的転換は生まれなかった。実験大学・筑波の登場(77年)も既存秩序にインパクトを与えず、課題は、ここでも先送りされたのである。

 協会活動の成熟と変化の予兆

 1980年4月12日「新入生を上回る三千九百人! 父母つき東大入学式」(読・夕)、「ママの入学式?」(毎・夕)、こんな記事が「同伴父母人数は史上最高」との解説付で紙面を飾った。高度成長期の企業戦士の子供たちが、47.2%という進学率を背景に偏差値型受験戦争に勝利して続々と大学へ送り込まれてきた。「大学紛争」経験世代とは異質な学生群の出現である。余談めいたこの話には「いま・二〇〇三年」を考える上で多少の意味がある。この時期に登場した学生たちがいまの日本社会の中核世代でありその親たちが高齢社会の中核を形成し始めているという、この事実である。
 さて70年代を通じて諸矛盾の臨界点に達しつつあった「大学」の80年代は、90年代に待ち受けていた激動=変革に見舞われることこそなかったが、その前提は文部省主導の審議会等で着々と準備され始めており、多くの大学人はそのことを意識していた。その内容を強引にまとめれば、量的処理は私学セクターに、国立セクターは質的充実、を基本に置いて、「(1)開かれた高等教育機関の整備、(2)高等教育機関の国際化、(3)特色ある高等教育機関の整備」を推進する、というものであった(紙幅上具体的に記せない)。
 出版界の80年代はどうだったか。統計数値上(書籍部門、81/90年比)は、販売金額126%、出版点数132%、発行部数119%、平均価格103%、だった。これだけのデータからでも、書籍を取巻く環境変化を読み取ることが出来る。
 「活字離れ」現象に対する様々な語りが横行し、「最近の学生さん」が嘆きの対象になった。しかし土地バブルを伴ってはいるものの低成長を基調とした80年代にあって、この業界はまだ成長している、と思われていた。「不況に強い出版業」という謬見にかなりの出版人が毒され、業界内危機の進行(それは流通問題に集約される)を結果として放置した。80年6月書協総会で当時の理事長は「業界の総論的な問題――版元と取次と日書連などが話し合って物事の骨格を決める――という総論の解決の時代は一段落した……。流通改善の問題にしても、……これからはむしろ個別的、各論的時代ではないか、……個別的な解決が積み重なっていって、総合的な出版界の骨格がより強固になり、前進する時代」と述べたという(『書協三十年史』254頁)。かくて、いまに至るも業界最大の課題は、あらゆる意味で多様な個別版元の自助努力に委ねられたのである。
 協会活動にとっての80年代を、あえて一言で表現するなら、それは「成熟期」とすることが許されよう。執行機関としての幹事会機能が整備され、韓国大学出版部協会、中国大学出版社協会との、個別的交流が始まり、86年4月には『大学出版』第1号の発刊を見た。83年・88年には協会創立20周年・25周年記念事業が、記念ブックフェアの全国展開を伴って盛大に執り行われ、協会の存在感は内外を問わず、かなりの高まりを見せた。88年6月には早くも、編集・営業合同研修会で「電子出版について」(植村八潮氏)議論されている。新会員は4大学出版部と必ずしも多くはなかったが、これには大学における「変化の予兆」を勘案すれば首肯できる。むしろ協会は、成熟に伴う新たな問題を意識化しなければならなかったのだが…。

 「その他の時代」の協会活動

 歴史の後知恵的物言いになることをお許し願いたいのだが、90年代は「失われた十年」というよりも、事柄の本質からすれば、事実上の決着は既に着いていた、という意味で「その他の時代」ではなかったか。大学(高等教育システム)を直撃した91年「大学設置基準の大綱化」、独立大学院構想等も80年代に準備を終えていたのではないか。確かに、形の変化から質の変化へ、そして露骨な「評価の時代」の開始ではあったが、これらも、92年18歳人口205万が2010年122万へと激減することがはるか以前より予測されていたことを思えば、ある種の諦念は伴うものの、必然の道ではなかったか。もちろん今日に直結している90年代を、だからといって軽視することは誤りである。むしろ大学人には事態への創造的対応を、期待しなければならなかった。90年代以降この数年における、新たな大学出版部作り状況も、これらのこととどこかでリンクしているに違いないし、大学の未来と大学出版部の未来は、本質的に重なっているのである。
 いわゆるバブル崩壊後の出版界を、トータルに語ろうとしても無理である。再販制ひとつとっても統一した像は浮かばない。流通問題の矛盾の蓄積は鈴木書店を倒産に追い込んだが、出口は全く見えてこない。過剰新刊ラッシュと個別版元の自転車操業型自助努力に支えられていたこの業界の「成長」も、止まって落ち始めるともう元には戻れない。創造的で本質的な変化を作れなくなった業界にとって、この10年はやはり「その他」でしかない。出版業としての大学出版部の苦悩も出版界のそれと重ならざるを得ない。
 このような状況を背景に90年代協会活動は、新たに8大学出版部を加えて現在に至り、80年代に到達した活動水準に、97年開始の日本・韓国・中国三カ国合同セミナー等を加えて発展してきた、と一応は言うことが出来る。しかし、成熟と発展を支えてきた担い手たちは、協会創立期と比べるまでもなく、この10年程で大変化を遂げていた。92年に協会会則等を見直し、また協会法人化を目指しての取り組みが、間欠的にもせよ行われたのは、予想される新しい事態に備えての試行の芽だったが、しかしこの芽を育てる仕事は、21世紀へと持ち越されることになったのである。
(未完)

(大学出版部協会幹事長・東京大学出版会)



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