「集約点」としての英文出版
― 我々は存在意義を示せるか ―

鈴木 哲也



 「インパクト・ファクター」としての大学出版部
  ――英文出版需要の背景


 研究者にとって最大の栄誉は、その研究発表が広く評価されることである。しかも今の世の中、それは単なる誉れではなく、研究を続け得るか否かを左右するポストと研究費を保障するものだ。先般、21世紀COEの採択・交付が発表されたが、167億円という巨額の国費を使って世界的な研究教育拠点を形成しようというプログラムも、その採択の基準は、それぞれのプロジェクトが世界的な評価に耐え得るか否かという点にある。
 今日、学術研究を評価する方法として猛威をふるっているのが、Citation Index(論文引用度)である。この方法が普及し始めた当初、研究者達はしたたかにも「仲間内で論文を引用し合う」という手法で引用度を上げようとした。しかし「敵(?)もさるもの」、そうした姑息な手段は許さない、と「最新文献指数」やら「被引用半減期」などという評価指標が様々に編み出され、最後に出てきたのがImpact Factor(文献引用影響率)という指標である。手短に言えば、当該の研究領域に高い影響力を持つメディアに採択されたかどうか、ということだ。
 数年前、私は、シリーズ研究書の出版を通じて懇意にしていただいている、ある京都大学附置研究所の所長に呼び出された。研究拠点形成の上では、世界に向けた成果公開が不可欠である。その点、京都大学学術出版会は、英文書の刊行に真剣に対応するつもりがあるのか。こちらの返事如何では叢書版元としての位置づけを見直すという含意も感じられた、いつになく厳しい問いかけであった。研究成果を相応しいメディアに発表することで、国際的な評価を求めたい。しかし、少数の例を除いて、日本から発信される権威ある英文専門誌はない。また、NatureやScienceのような、世界的な影響力を持つ学術レビュー誌も日本には存在しない。そこで、大学出版部に「Impact Factor」としての役割を求めたいが、京大に限らず、日本の大学出版部は英文出版を事実上等閑視してはいないか(注1)。研究者のいらだちがここにあるのだ。

 何を出版するか――企画採択の要件

 しかし、私たちにも言い分はある。英文書の刊行には特別なコストがかかる。まず、英文原稿を査読しそれにコメントできる編集者を必要とする。さらに英文の校閲は不可欠であり、これは英語を母国語とし、しかも語感に敏感な者でなければ務まらない。組版や印刷・製本のコストを下げる方法はいくらもあるが、こうした編集費用は決して削減できないのだ。しかも販売がこれまた大変である。日本には海外市場に本を送り出すシステムがほとんど存在しない。だいいち、世界中の研究者に案内を送るには、どうすればいいのだ? 確かに、英文出版を経済的に支援するシステムは、科学研究費を中心にして強化されつつある。しかし、企画から販売まで、出版社に相応しく仕事をするには、英文書出版は私たちにとって非常に負担が重いのだ。
 それをあえて行おうとすれば、何を刊行すべきか、という基本から見直さねばならない。「これはなかなか優れた博士論文です」程度の評価では、とても企画化することはできないのだ。私たちが設けた企画採択の要件は、次のようなものである。
(1)日本の学界が世界をリードしている、または世界的に見てユニークな一角を形成していることが明らかな領域にあって、高く評価されている研究。例えば、理論物理学、防災科学、生態学、霊長類学、地域研究等の分野の優れた研究。
(2)その著者(または研究グループ)が世界をリードする、あるいは世界的に見てユニークな一角を形成している場合。例えば、仏文学におけるプルースト書誌研究等。
(3)現在でも世界的に引用頻度の高い、古典的な業績。例えば数理生態学における内田俊郎の業績。
(4)ロケーション的に日本でなければできない貴重な研究。例えば、日本(アジア)産生物の分類や生態・行動、日本文学、伝統芸術、日本史、日本の社会分析等の分野での優れた研究。ただし、できれば個別研究ではなく、グランド・セオリー的なものが相応しい。
 もちろんそれ以外にも考えられようが、注意しなければならないのは、日本紹介、例えば伝統芸能等の分野なら海外で売れるかもしれないと考えて企画化するようなことは、避けるべきだということだ。海外での日本への関心は、かつてのように高くない。その意味で読者の想定を誤っていると思うからだ。まして、「英文だから内容の正確な評価はできない」として、しかるべき審査をすることなく企画化する、という態度は決して取ってはならない。場合によっては、手痛い失敗を招くこともあり得るのだ。「標準的」な学説では、間違いはないがつまらない。したがって、出版企画にはある種「意欲的・挑戦的」な内容が求められるのだが、その域を超えて、「珍説」「異説」となると、著者のみならず、企画を採択した側に批判が及ぶ。
 いずれにせよ、著者側の企画提案に出版部自身が的確な評価を加えられるようにしなければ、こうした基準は意味をなさない。審査体制の強化はもちろん、COEや科研特定領域などの大型研究の動向に注意したり、日頃から各種の学術レビュー誌に目を通すなど、企画力の向上を抜きにして、英文書の出版を引き受けるわけにはいかないのだ。

 編集と英文校閲をどう進めるか

 いくら世界に向かって刊行するに相応しい研究であっても、その論文を右から左へと印刷製本して出版するわけにはいかない。実は、本稿の基になるレポート(注2)を作成する準備として、大学出版部協会の加盟出版部にアンケートをとったが、その回答の中で、「校閲は著者責任」とする出版部が少なからず見られた。極端なものでは、「版下原稿の作成まで著者の責任になっている」という回答もあった。
 しかし、和書の場合を省みればわかるように、可読性という点でも、場合によっては叙述の正確さという点でも、著者の原稿がすべてそのまま刊行にたえられるわけではない。霊長類学者の原稿に「チンパンジーからヒトへの人類進化……」などという一言が紛れ込むことだって、現実にあるのだ。精密さを要求される本論から離れた部分には、時としてこうしたラフな記述が忍び込むものだ。そうでなくとも、言葉のセンスが問われるのが出版だ。日本で発行される数少ない権威ある国際学術誌の一つ、Progress(理論物理学刊行会)の校閲者を長く務めているG・パケット氏によれば、正確さを要求される論文英語において、日本人の英文は、aboutやagree、changeやcommonとかいった、ごく「基本的」な語の用法に問題があるそうだ。たとえば、These cross sections are all about the same. という文章のどこに学術論文としての問題があるか、指摘できる日本人は少ないだろう。しかしその結果として、投稿した論文がリジェクトされ、ひどいときには研究のプライオリティを侵されることさえあり得るという。引用され得る学術書をつくるためには、語感や印象へも配慮した査読・校閲は不可欠なのだ。
 私たちはこの点で、メルボルンにある学術出版社Trans Pacific Pressと提携を結んだ。同社は、現地の大学で社会学部長を務められた日本人(杉本良夫氏 本誌読者にはご存じの方も多いだろう)が、主として日本人社会学者の優れた仕事を英文で刊行するために、自前で立ち上げた出版社である。査読・校閲スタッフとしては、tutorクラスの若手研究者を何名も組織している。同社に校閲を依頼した原稿は、いずれも英文は端から「真っ赤」に朱入れされ、記述内容へのコメントや質問は一書目で百項目以上にわたる。ここまですれば、和書と同等レベルの編集はできた、と評価できるだろう。
 こうした編集を経て刊行された2002年1月以降の刊行物の販売状況を見ると、いずれも刊行後1年を経ずして初版部数の過半数を売りきっている。海外販売分は原価ぎりぎりまでディスカウントを要求されるとはいえ、英文書販売ではほとんど返本がないから、実売である。いずれも科学研究費等の出版助成を受けており、大学出版部のスタッフならお察しのとおり、すでに採算分岐を超えている。

 事は和書出版にも通底する
 ――大学出版部の「集約点」としての英文出版


 紙幅の関係で上記の販売をどのように進めたか、詳しく紹介することはできないが、海外市場に関しては、Trans Pacific Pressを通じて各地のホールセラーと結びついている。私たち京都大学学術出版会は、ここ数年間、年間刊行点数(30〜40点ほど)の約1割を英文書に当ててきた。その点、日本の大学出版部の中で、現時点ではもっとも積極的に英文書出版に取り組んでいると自ら信じるし、前述した各企画分野に対応したいくつかの既刊書は海外で高い評価を得、中には版を重ねることができたものもある。
 英文書の販売についてはここでは触れることができなかった。だが、少なくとも、企画・編集を十全に行えば、販売チャネルをそれぞれに用意することで(もちろん和書ほどではないにせよ)とにかく採算のとれるまでの販売実績を上げることができることは、確信してよい。
 勘の良い方なら、ここまで読み進められて、すでにお気づきになったに違いない。そう、実は英文書も和書も、企画・編集の要点は全く同じなのだ。販売面では、確かに和書と違った努力や工夫もいるが、それでも再販制の見直しや返本問題がクローズアップされている今、取り組まねばならない問題は、本質的には同じである(この点では、先に『大学出版』誌上で紹介された東海大学出版会の経験は、大いに参考になる(注3))。
 「真に評価され得る成果公開」の機能を果たせるか。大学の設置形態が大きく変わり、もちろんそれが、大学の存在意義の再構築を必要とする今、大学出版部はまさに存在意義を問われている。英文書出版は、私たちの取り組むべき問題の収束点にあるのではないだろうか。

■ 注
(1)国内での英文書出版についてはそもそも統計もないが、日本書籍総目録と各出版社のWEBサイト等に基づいて推定すると、2001年度1年間で60書目程度と思われ、これは総点数(7万1073)の0.08%に過ぎない。しかも、その多くは日本紹介書や海事・医事等の日本の法令集であり、研究書といえるものは、おそらく大学出版部の14点のみと思われる。しかし、この数も、大学出版部全体の刊行点数(775)の1.8%である。
(2)大学出版部協会2002年度夏期研修会(刊行助成部会)への報告「大学出版と英(欧)文図書出版」(2002年8月23日)。
(3)三浦義博「出版社によるオンライン販売」『大学出版』52号、2002年3月。

(京都大学学術出版会)



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