大学の知的財産を社会に還元する出版活動

小林 哲夫



 小柴昌俊さん、田中耕一さんのノーベル賞受賞が決まってからすぐに、彼らの手記刊行をめぐって水面下で争奪戦がおこった。小柴さん、田中さんをいかにくどき落とすか、わたくしも編集者として、この「戦い」に参加してみたかった。出版にかける熱意がノーベル賞科学者に通じて、彼らから担当編集者として「ご指名」を受ける。これは、編集者としての能力を高く評価されたと受け止めていいだろう。編集者冥利に尽きるというものだ。
 一般読者向け啓蒙書(入門書)として、小柴さんは講談社ブルーバックス、朝日選書を出している。田中さんはまだ著書はないが、『文藝春秋』誌で日記を連載しており、おそらくこれが本にまとめられることになるだろう。老舗の大手出版社のブランド力か、優秀な編集者のなせるわざなのか。いずれにしても、編集者は彼らの本を出すべく、勝負に出るべきである。知名度が高くない出版社でも、果敢にチャレンジしてほしいものだ。
 小柴さん、田中さんはアカデミズムの世界の人たちである。研究者であり、大学との縁も深い。ならば、大学出版部も彼らの手記争奪戦に積極的に参加してもいいのではないだろうか。小柴さんが勤めた東京大学、東海大学。そして、田中さんが卒業した東北大学。これら大学の出版部こそがノーベル賞受賞者の著書を出すのにもっともふさわしい。いや、責務ともいえないだろうか。
 大学出版部が所属(していた)大学のノーベル賞受賞者の著書を世に問うこと。ここに、大学出版部が果たすべき役割が象徴されているとわたしは思う。なぜならば、アカデミズムと一般大衆をつなぐ媒体としての大きな役割が、他の出版社より求められているからだ。小柴さんのスーパーカミオカンデ、田中さんのタンパク質の質量測定法をわかりやすく解説する媒体として、出版会(出版部)の前に冠としてかぶせられた「○○大学」というブランド力がもっといかされていい。
 ここで、わたしなりに大学出版部の役割を考えてみたい。どんな出版物が求められるか、個人的な希望をまじえて次のようにまとめてみた。(1)古典となるような基礎文献、(2)最新の学問テーマのわかりやすい解説、(3)大学で使われる教材、(4)受験生向きの大学情報(教育、研究内容)紹介、(5)企業など一般社会向け大学情報、(6)高校生が読む教養書。

 「わが大学はこう考える」を本にまとめる

(1)古典となるような基礎文献。これの定義はむずかしいが、基礎的な理論や公式が掲載されている文献、特定の主義主張をまとめたもので引用度が高い文献ということができるだろう。たとえば、『一般言語学講義』(ソシュール、岩波書店)、『哲学史講義』(ヘーゲル、河出書房新社)などのように、どうしても翻訳物が多くなるが、所属する大学の研究者から最新の基礎文献に関する情報を提供してもらい、ぜひ、翻訳刊行を考えていただきたい。『ジェンダー・トラブル』(ジュディス・バトラー、青土社)、『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊國屋書店)、『社会学の社会学』(ピエール・ブルデュー、藤原書店)あたりは、大学出版部から刊行してほしかった。
(2)最新の学問テーマのわかりやすい解説。2001〜02年にかけて、大学教員が著した本が相次いでベストセラーになった。01年同時多発テロ以降、イスラムへの関心の高まりが売り上げに結びついた『現代イスラムの潮流』(宮田律、集英社)、日本語ブームの火付け役ともういうべき『声に出して読みたい日本語』(草思社、齋藤孝)である。いずれも、研究者としての専門性がいかされたテーマであり、大学出版部が出してもおかしくない内容である。
 大学出版部編集者はどこよりも早く研究者の最新業績を知ることができ、彼らに対してもアクセスしやすい立場にある。大学でおもしろそうな研究を進めていたり、熱心に社会活動を行っていたりする教員たちに関する情報をいち早くキャッチして世に問うことができるはずだ。
 ところが、実際、大学出版部編集者、大学研究者双方に話を聞いても、「わが大学の最新テーマ、将来有望な若手研究者の独特な学説や見解を、わが出版会を通して社会に知らせてあげよう」という視点での情報交換があまりなされていないようだ。知的資源の有効活用がなされず、じつにもったいない話である。
 朝鮮半島問題、アメリカのイラク攻撃、日本の不良債権問題、政治改革、教育政策……、大学のなかにはこれら諸問題を解きほぐす専門家は何人もいる。彼らの知識や政策提言について、なぜ、同じ大学の冠を戴く出版会が発信する媒体になろうとしないのか。たとえば、九・一一同時多発テロについて、総合大学であれば、政治学、宗教学、社会学、経済学、建築学(ビル崩壊の原因追究)などの分野の知恵を総動員して、一冊の本にまとめればいい。「○○大学はテロをこう考える」などのタイトルで。そのためには、大学出版部の編集者は、読者になにが求められているのか、つまり、なにが売れるのかについて、徹底的にマーケティングすべきではないだろうか。

 新書に対抗できる教養書を

(3)大学で使われる教材。毎年新学期を迎えると、大学生協などの書店では教科書販売コーナーが設置される。ここに並んでいる専門書、テキスト、サブノート類のなかには、大学出版部のものはそれほど多くない。教育に熱心な大学教員は、毎回、授業ごとにオリジナル教材を作るが、授業が終わると二度と陽の目を見ない場合が多い。一方で、試験前になると、講義ノートや教室での配布プリントが、多くの学生にコピーされる。ここに、大学出版部が参入する余地はないだろうか。単価が安い小冊子、あるいは、資料集でもいい。大学教員が授業に必要とする講義録に代わるもの、そして、学生が自習する上で役立つコンパクトにまとまったものを、作ってみたらどうだろうか。
(4)受験生向きの大学情報(教育、研究内容)紹介。大学の入試広報課には、受験生用パンフレットが山のように積まれている。それも装丁、印刷にかなりお金がかかったものだ。しかし、パンフレットを読んだだけでは、大学の教育、研究内容はなかなか伝わってこない。
 大学受験の進路指導を担当する高校教諭はパンフレットに見られるような「大学がどれだけきれいに着飾っているか」ではなく、「大学でなにを学ぶことができ、学生にどのような価値が付加され、卒業後の進路はどうなのか」を知りたい。この一冊を読めば、大学の最新情報がわかるような本がほしい。販売戦略的にも、全国の高校に一冊おかれるようなその大学の年鑑刊行はそれほど大きな冒険ではないはずだ。とくに、学問紹介、教育内容、教員の活動を詳細に記した大学情報誌を、ぜひ作ってほしい。
(5)企業など一般社会向け大学情報。高校と同じで企業人事部に一冊おかれるような大学情報誌だ。就職課、就職指導担当教員、就職実績がある企業から、できる限りの情報(実務教育の内容、学生の資格取得状況、卒業生の企業での活躍など)を提供してもらい、大学と企業との情報ギャップを埋める役割を果たす。企業が求める学生、大学が自信を持って送り出せる学生――お互いのニーズに応えられるような情報を大学出版部はとりまとめたらどうだろうか。また、産学共同の成果、特許取得状況などの情報も積極的に公開してほしい。
(6)高校生が読む教養書。受験生から定番とされる受験参考書の執筆者は、以前は大学教員が圧倒的に多かったが、いまでは、予備校講師が大半を占めている。しかし、予備校講師が著した参考書は短時間に効率よく公式、年表を覚えるノウハウを伝授するものなどマニュアル色が強い。
 しかし、大学入試の多様化がすすみ「人物」が重視されるなかで、論文や面接を課す大学が増えてきた。これに対応できる知識、能力、とくに教養が受験生に求められるようになっている。そこで、受験生の知的好奇心を満たす教養書(啓蒙書)が必要になってくる。大学教員の出番だ。この市場を大学出版部はぜひ活用して、しっかりした教養書を作ってほしい。1週間〜1ヶ月で書き上げられてしまうような粗製濫造気味の新書の、教養と銘打ちながら週刊誌記事の寄せ集めのような内容に警鐘をならすためにも。

 地域社会に役立つ本を作ってほしい

 これまで述べてきたことは絵空事ではないか、との意見があるかもしれない。実際、大学出版部は大学とは別物の組織であることもあり、教員や事務職員との交流が十分に図れないこともあるだろう。たとえば、大学当局の広報予算が出版部にまわるようなシステムではなく財政的に厳しい、大学出版部職員が大学の定期人事で決まってしまいプロの編集者がいない――などの現実はあるだろう。それを承知でわたしはあえて主張したい。大学出版部が大学と読者をより綿密に結びつけるシステムを作らなければ、大学出版部ブランドが宝の持ち腐れになってしまうではないか、との思いからだ。
 大学出版部が作るべき本はたくさんあると思う。たとえば、『大学自己評価報告書』。図体だけはでかいが、社会にはなにも役立っていないばかりか、大学内部でも無用の長物と思われがちである。しかし、その中身をつぶさに読むと、大学人のホンネが見え隠れして結構おもしろい。大学評価委員会から予算の都合をつけ、一般向けにコンパクトにまとめた自己評価本を出したらどうだろうか。高校の先生はパンフレットよりも大学の外部評価に関心がある。
 また、「21世紀COE」に申請した研究テーマの内容を大学出版部はぜひまとめてほしい。大学がもっとも誇りとする研究を社会に公表するのは大学の義務だからだ。
 最後に、わたしが大学出版部編集者だったらぜひ手がけてみたい本について記しておこう。2000年3月に北海道有珠山が噴火したときに、北海道大学附属地震火山研究観測センター教授の岡田弘さんは、噴火の状況や今後の対策について刻一刻、記者会見で発表していた。岡田さんは噴火する前から地元の地域住民にとけ込んで避難訓練を行っていた。当時、わたしは、岡田さんの活動を見て、彼に有珠山についての基礎知識、噴火のシステム、避難の方法など一冊の本にまとめて書いてもらいたいと思った。地域の人々の役に立ち、社会から信頼される大学づくりに一役買うためにも、版元は大学出版部しかない。大学が地域社会のために役に立つ。その手伝いを大学出版部が担う――という役割が理想的なのではないだろうか。
(朝日新聞社出版本部大学ランキング編集部)



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