本格化する大学の競争と大学出版

後藤 健介



 大学出版部と一般の出版社との一番の違いとは、所属大学との関係で本を出している、ということだろう。その「関係」のありようは、大学によって色々な個性がある。しかし、いま例外なくどこでもその大学自体が大きく揺れていて、大学出版に携わる私たちにもいろいろな影響を及ぼしつつある。
 今年の日韓中三カ国セミナーの共通主題は「大学出版の環境変化と対応戦略」だった。それならば大学出版の最大の「環境」である大学の変化とその行き着くところを現時点で捉えておくことが、「対応戦略」を議論する前提として必要になってくるだろう。

 「21世紀COEプログラム」の意味

 ところで、この秋全国の大学関係者の話題をさらったのは、文部科学省の「21世紀COEプログラム」(COEとは「センター・オブ・エクセレンス」の略)だろう。これは昨年発表された「トップ30」構想、つまりある研究領域において上位30に選ばれた大学に集中的に国庫支出するという構想を現実化したものである。今年10月には50校113プロジェクト、総計約167億円の交付がきまっている。
 この話に触れる大学関係者の口調に切実なニュアンスが感じられるのには、ひとつの背景がある。国立大学の例を考えてみよう。2004年度からすべての国立大学が「国立大学法人」(独立行政法人)という形で、国家の規制ないしは保護からかなりの部分離脱することが確実視されている。国立大学の「独立行政法人」化とは、当初、国家公務員をこれで一気に約13万人削減できることから、政府が行政改革の点数をかせぐ目論みかともいわれた。実際のところは、そうした国家行政の軽量化(国庫支出の削減)に加え、国家による管理を柔らげることによって、大学教育を活性化させる両面作戦というところだろう。しかし経済の不況が長引くにつれ、しかも「学力低下問題」のなかで、日本の国際競争力を向上させる役割を大学は期待されはじめた。「大学の構造改革なくして、日本の再生と発展はない」(遠山敦子文部科学大臣)というわけである。かといって国庫支出を豊かにできるわけではない。国庫支出の削減と国際競争力の向上とが両立されなくてはならない。「21世紀COEプログラム」は、限られた財源を国際競争力の向上という目標設定の下に競わせて“傾斜配分”する制度だといえるだろう。
 独立行政法人化以降の国立大学は、予算配分や人事、カリキュラムや産学連携を含む各種事業に自由が認められる。しかしそれと同時に、独立採算的な体制の確立が求められるだろう。一方で少子化により授業料収入も受験料収入も急減し“大学がつぶれる時代”が危惧されているのに、である。また、こうした国庫支出の争奪は、実は国立大学だけの問題ではない。
 日本の私立大学はその収入のかなりの部分を国からの交付金に依存している。近年の国の大学政策に対して私立大学は、国立大学との「公平・公正な競争環境基盤(イコール・フッティング)」(私大連)を主張、すなわち競争政策を積極的に容認しながら「公平・公正な「市場原理」」の作動を主張している。「21世紀COEプログラム」の「趣旨およびねらい」にも「国公私を通じた大学間の競い合いがより活発に行われることが重要」と端的に書かれている。すべての大学が、国公私立の区別ない競争に、本格的に突入している。おおくの大学関係者の脳裏には、“これを勝ち抜かなければウチはつぶれる”という思いがある。

 大学出版への影響

 「21世紀COEプログラム」は、実は大学の競争のひとつの例でしかない。「臨床心理士の認定校」「法科大学院」などの設置、入試方法の多様化による学生確保など、他大学との比較優位が争われているものはたくさんある。そして、これまでみたような大学と大学の間の競争は、今度は学内にじわりと浸透してゆく。
 限られた学生・受験生の争奪、財源の争奪は、「集客できる学部」「集金できる学科」をめざす学内各部局間の競争に移ってゆく。しかもこの競争には、いわば“成績通知表”がある。この数年で日本の大学を動かす大きな力となっているのは「外部評価」の制度である。大学評価機構の評価が、今後、大学・学部学科の存立や、国庫支出の多寡に影響する可能性も議論されている。この対応のため大学内の各学部・学科・研究所は、「業績」の確保とその表現に莫大なエネルギーをさかねばならなくなっている。すでに、教員の業績を論文や書籍刊行の数で評定する岡山大学のような制度が話題になっているが、将来業績点数が人事考課・資格認定にも直結する事態も想定できる。
 さて、ここで出版の話になってくる。色々と考えられる問題のうち、ここでは博士論文の書籍刊行をみる。私の狭い見聞でも最近とみに多くなったのが博士論文の刊行打診だ。博士課程を修了したものは、文部科学省の統計によると1990年から2000年までの間に2倍以上になっている。大学淘汰もささやかれる時代の院生の就職は、その若手研究者個人の問題であり、同時に指導教員・出身研究科(講座)の将来がかかった問題でもある。
 もちろんそうした動機のみから業績刊行が求められるわけではなかろう。しかし博士論文は、きわめて専門化したある範囲での高度さを審査されるものである。学問が細分化している今日、ある分野での高度さがかならずしも周辺分野への影響につながるとはいえなくなっている。図書館に製本された論文が配架されるということ以上に、数百部なら数百部、二千部なら二千部の本として刊行することの意味はなにか、このことを最近よく考える。
 これは単に売れる売れないという経済性の問題にとどまらない(しかしこの問題は大きい)。一定数以上の知的生産者や高度な関心をもつ読者を想定して学術出版という活動を継続的に行うことによって、知のコミュニケーションの“場”を提供してきたのが大学出版だとすれば、業績論的な動機が勝るモノローグのような本を作ってゆくことは、実はこうした大学出版の公共性の自己否定でもある、そのように言えないか。第一、論文を出版したいと考える人は、出版すればより広範な読者を得られるだろうと考えるからこそ出版を打診するのだろう。ならば私たち出版の現場とすれば、博士論文を刊行したいという意欲を研究者がもってくれるのであれば、出版社とともに、より多い読者を得るよう、“本として作ってゆく”ということに同意してほしいという気持ちが生まれてくる。
 最近では、学術振興会の科研費刊行助成をはじめ、たとえば東京大学出版刊行助成制度が発足するなど、困難な出版事情の中、学術書の刊行を後押しする制度は徐々に整えられつつある。東京大学の刊行助成は、比較的若手の教官および東京大学で作成された学位論文を対象としている。しかし、と思う。どれだけ制度が充実し、どれだけ援助があろうとも、コミュニケーションへの意志をきちんと表現するものでなければ、本として出版してはいけないのではないだろうか? もっとも、これは乱暴な意見で、すくなくとも実際上の判断が難しい。編集者が知的世界をくまなく知悉しているわけはないし、コミュニケーションが“将来に向けて開かれている”(つまり、現時点ではあまり読者がいない)場合の判断はどうするべきか、知的世界のありかたや動向を固定的にとらえると、学問の多様性を大学出版自らが限定する危険もある。しかし、ちょっとした用語法の注意、論理展開の補足だけでも格段に読みやすさは増す。編集現場の工夫としてなすべきことは多い。さらにまた、ある大学出版部がどんな本をだすことで話題を提供し、知的生産の世界の動向を可視化してゆくかということ、本を出す出さないの決断(積極的にいえば“企画”)は、補助金の有無にかかわらず絶対放棄してはいけないのではないか。

 韓国・中国の大学出版部ではどうか

 以上のような話をセミナーでもしてみた。大学での競争原理が業績刊行意欲につながっているのなら、大学出版はそれを読者にきちんとコーディネートすること、編集にこだわり編集機能を拡張する主張を隣国の同業者に問うてみたわけだ。しかし、中国の大学出版社の反応は喚び起こせなかった。中国は出版市場も大学教育もまだ拡大期である。中国側の主題発表「大学出版社の発展チャンスと特色図書の育成」のように、拡大する経済という「環境変化」のなかで、どんな本を出せばもっと売れるのか、というようなことが中国側の関心であったように思える。
 一方で韓国の大学は、たとえば会場になった国立ソウル大学はすでに独立行政法人であり、むしろ日本より先にアメリカなどをモデルに競争的な大学制度を形成している。その韓国側の主題発表が、朱弘均氏(建国大学出版部長)の「デジタル時代における韓国の出版環境の変化と大学出版部の志向目標」だった。「トータルマーケッティング」、つまり「企画→編集→マーケティング→結果分析→データベース構築→再企画」という有機的な連携を大学出版部が実現すべきという発表だった。実はこれには従来の韓国の大学出版部のありかたに対するかなり根源的な再考が含まれている。韓国の大学出版部は従来、その大学の教員が直接的な差配をしており、学術的価値があると認められれば赤字を覚悟で出版し、その赤字は大学が補填するというようなありかたが多かったと聞く。しかし近年では大学出版部が学術出版のメディアとしてきちんと機能しているか、その採算性も含め厳しく問われている。そんななかで、経済的な採算性確立を、読者をより正確に確実にとらえてゆく契機にしようとする朱氏の提案には、大きな共感を覚えた。
 日韓両国の大学出版は、大学の改革をはじめとする知的生産環境の、逆風とも思える激変のなかで、本を出すことを通じてそれに参画することをはじめている。しかし知的環境の変化をとらえ、媒体に具体化し、公共空間にコーディネートしてゆくこととは、そもそも編集、さらには出版社の機能の原義ではなかったか。今回のセミナーはこうした出版の原像を再確認する契機となった。
(東京大学出版会)



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