学術情報とオンライン・ジャーナル
研究者の立場から


潮木 守一



 情報発信の移り変わり

 これまで研究成果の発表には、ずいぶん苦労をしてきた。とくに若い頃はどの出版社に原稿を持ち込んでも活字にはしてくれなかった。これは私一人だけの経験ではなかった。先輩、同僚、後輩の優れた原稿が、いつまでも埃をかぶっている光景を、数知れず目撃してきた。こういう苦い体験をしてきた世代からすれば、インターネットの出現は、まさに天啓のように鳴り響いた。これによって出版商業主義から独立できる。いちいち出版社に頭を下げまくることなく、思い通りに研究成果を発表できる。この天の恵みを利用しなくて、何を利用しろというのか。
 さっそく大学院の授業では、院生にホームページの作り方を教えた。「これからは我々にとって新しい時代が始まるのだ。ホームページの書き方さえ知っていれば、怖いものはない。これからの研究者は出版業界から独立して、ホームページ上で研究成果の交流をすればよい時代になる」。
 名古屋大学にいた頃、名古屋大学出版会の経営を手伝わされた。その当時の名古屋大学出版会は絶好調にあり、毎年次々と有力な賞を獲得しては、周囲を驚かせていた。営業的にも堅調で、教科書のストックがたまるたびに、収入が確実に上向いていた。ただ、大学出版会とはいえ、あくまでも独立採算を維持しなければならない。危険な出版はできない。とくに販売部数の限られた学術出版の場合、価格の設定が頭の痛い問題だった。あまり高く設定すると売れない。しかし、売れる見とおしの少ない研究書は、やむをえずある程度高い値段をつけてコストを吸収するほかない。若い頃、引き受け手のない原稿を抱えて、出版社めぐりをした時の経験がよみがえってきた。
 考えてみれば、学術情報を出版業界を通じて「商品」に転換し、その「商品」を流通業界を通じて伝播させる必要はどこにもない。もともと学術情報は研究者仲間の中だけで必要とされ、その内部だけで利用される情報である。その流通範囲はあくまでも限られている。ただ、これまで従来型の出版システム、流通システム以外に頼るべき手段がなかったから、学術出版もまた小説家の文学と同じシステムを利用してきただけである。
 すでにコンピュータの普及しはじめたアメリカでは、1980年代から博士論文はデータベース化され、注文を出しさえすれば、そこから打ち出して、購入できる仕組みとなっていた。ワープロの出現を受けて、筆者もまた「研究者よ、ワープロを使って出版業界からの独立を獲得しようではないか」と呼びかけたことがある。しかしインターネットのインフラが整っていなかったその当時は、それほどの反響はなかった。その後、インフラが整備され、我々でも利用できるようになった1990年代の中葉、再び同じ研究者仲間に向けて、今度こそとばかり、呼びかけてみた。それが「オンライン・ジャーナルの可能性と課題」というタイトルの、文字通りオンライン上だけで発表した最初の論文である。
 このオンライン論文を発表してから、すでに6年の歳月が経とうとしているが、その後、いったい何が起きたであろうか。これまでの経験を振り返ってみたい。

 オンライン・ジャーナルへの夢

 まず最初に、現在の正直な気持ちを語れば、もっと多くの人々が同調し、オンライン・ジャーナルを利用してくれると思っていた。つまり過去6年間の推移は小生からすれば残念であり、不満でならない。いったいなぜみんな「私設出版社」を利用して研究成果を発表しないのか。頭を冷やして考えてみれば、そこにはいくつかの理由がある。
 まず第一の理由は、まだなんといっても「同志の友」が少なすぎる。オンライン・ジャーナルの強味は、引用相手がデジタル化されていれば、クリック1つで瞬時にその論文に飛べることである。従来のように、いちいち注をつける方式では、わざわざ図書館まででかけ、無尽蔵な蔵書のなかから目指す文献を見つけ出さない限り、参照することができない。将来、すべての学術論文がデジタル化されれば、引用されている論文をクリック1つで原文を引き出すことができ、図書館にいちいち出向く必要がなくなる。これは我々研究者にとっては、夢の世界ではないか。
 さらに小生の属する専門分野では、毎年多くの研究者が自分で調査票を作成し、自分でサンプルを抽出して、実態調査を行っている。このタイプの研究では、まずその研究者の使用した調査票が公表されることはほとんどない。また学会のレフリー・ジャーナルにはそれを収録する物理的スペース、予算上の余裕がない。一つ一つの質問項目に、一人一人の調査対象者がどう答えたのか、そのデータが公表されることはほとんどない。その理由は簡単で、そのデータを紙の上で印刷物として公表しようとしたら、膨大なページが必要となり、物理的にも予算的にも不可能だからである。その結果、どういうことが起きるかというと、研究に使った元のデータを握っているのは、当の研究者だけで、それ以外の者はそれにアクセスすることができない。部外者は当の研究者の結論を、「ああ、そうでしたか」と黙って聞いているしかない。
 しかし考えてみればこうした研究スタイルは可笑しなもので、第三者の追試・再試から免れている研究は研究に値しない。これでは知識の確定、確認、蓄積はありえない。しかしそうかといって、使用したすべてのデータを公表するとなると、莫大な資金が必要となる。そこでお互い様、やむをえずこうしてきているだけである。つまり、従来型のジャーナル、従来型の出版物に依存している限り、研究情報の公開は限定され、こうした不十分で不完全な研究情報の範囲内で研究交流を図るしかない。
 ところが、インターネットの登場は、こうした環境を一変させた。インターネット上であれば、その研究に使用したデータはいくら大量であろうとも、すべて公開できる。公開しておけば、新しい仮説、新しい分析方法を思いついた研究者は、その研究者なりの立場で再吟味、再集計、再分析をすることができる。こういう機構を作っておけば、より高度な実証分析を共通の舞台の上で展開できるはずである。
 しかし口先だけでこういっていても始まらないので、まず「隗より始めよ」の言葉に従い、院生諸君と協力して、ある国際機関の公表した統計をコンピュータに打ち込み、分析したあとで、その時に使用したデータをすべてエクセル・ファイルにしてホームページ上に公表してみた。このデータは年次統計なので、「このデータ・ファイルはどなたでも御自由にお使い下さい。ただ御利用くださる時は、できれば新しい年度のデータを追加して下さい。またその次に使う人は、もう1年分のデータを追加して下さい」と書き添えておいた。我々が期待したことは、こうしておけば、毎年新たなデータが追加されてゆき、やがては膨大な時系列のデータ・ファイルが出来上がり、誰でも自由にそれを利用できるようになると思ったからである。
 この企画を実行したのは、今から4年ほど前のことである。この我々の期待が果たして実現されたかどうかは、今は報告する段階にはない。ことあるごとに、データの共有化、共同利用が主張されるが、事態はそれほど簡単には動かないようだが、筆者はまだあきらめていない。

 紙媒体への信仰

 もう一つ、オンライン・ジャーナルが発展しない背景には、依然として印刷物に対する信仰が強いことがある。この信仰は二重の背景をもっており、まずせっかく「私設出版社」を手にいれたといっても、実際にホームページをのぞいてみると、あまり役に立つ情報が載っていない。このことが、オンライン・ジャーナルに対する信頼性を低めていることは明らかである。我々研究者はもともと研究情報の生産者であると同時に消費者でもある。一所懸命、ホームページをくくってみても、たいして役に立つ情報が載っていないと、あまりみたくなくなる。それに引き換え、名の通った出版社から刊行された本であれば、それだけのゲートキーパーの評価・検証を経てきたのだから、当たりはずれが少ない。
 つまり万人が「私設出版社」をもち、自由に情報を発信できるようになったのはよいことだが、このようにして発信される、無数に近い情報についての評価機構がまだできていないという問題である。だれしも無数に近い情報の一つ一つを読み下して、どれだけ価値があるか判定している時間はない。そのことを考えると、出版業界があって、専門の編集者が吟味の末、出版に載せてくれる仕組みは便利である。また専門学会があって、そのレフリーが内容をチェックして、価値ある情報だけを採択してくれる仕組みは、何にも代えがたい。ただそこには専門編集者といえども、専門研究者といえども、100%完全な選択ができるとは限らないという、宿命的な問題がつきまとうことになる。
 この問題について、いろいろな立場の人の意見を聞いていると、これもさまざまである。なかには評価機構、レフリー制度など一切不必要だと主張する人もいる。それとは逆にオンライン・ジャーナルを発展させるためには、研究情報のクオリティ・コントロールは絶対に必要で、クオリティ・コントロールのないジャーナルは結局のところ信頼を失い、利用されなくなるという意見もある。
 この問題については、小生自身まだ意を決しかねている。ただこういう新しい時代が到来したのだから、発想をまったく変えてみたらと思うことがある。つまり、レフリー制は廃止して、研究者はどんどん自分のホームページ上で研究成果を発表する。確かにレフリー制は研究情報のクオリティ・コントロール上必要で有効ではあるが、所詮は人が人の研究を評価するのだから、100%の公平性は期しがたい。だから研究者には自由な発表の場を提供する。その代わり、重要な研究成果であれば、どんどん引用され、多くのリンクが張られ、そうでない研究成果は無視され、ファイルの下の方に置き去りにされるはずである。つまり情報の生産者は自由に発表し、消費者は自由に選択することによって、サイバー上に多数の参加者からなる評価機構が出来上がることになる。
 市場に登場する商品は、すべてこうしたメカニズムで取捨選択されてゆくが、学術情報もこれと同様のメカニズムを使えるのではなかろうか。これは一種の公開評価、衆人環視の中でのレフリー制になるが、案外そのようななかから、何がしかの秩序が出来上がってゆくのではないかというのが、小生の希望であり、期待でもある。
 果たして、この期待がどれほど現実のものになるか、もう数年経ったらもう一度検討してみようではないか。まだ希望は捨てるべきではない。
(武蔵野女子大学現代社会学部)



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