製作の現場から


22 甍(いらか)の波と文字の列



▼滋賀県の近江八幡市で大学出版部協会の夏季研修会が開催され、帰途、同市多賀町の近江八幡市立「かわらミュージアム」に立ち寄った。河原ではなく、瓦の博物館である。瓦の製造工程をあらわした模型、道具類、琵琶湖の粘土で造られた瓦を中心とする日本と世界各地の瓦、職人が腕を磨くために造られたという瓦人形、さらには現代の瓦アートが展示され、来館者のための体験工房もある。
▼展示品のなかで、もっとも魅力的なのは、ごくあたりまえの「いぶし瓦」だった。その深みのある色は、光線により、あるいは角度によって、黒、灰色、銀色に変化する。華やかではないが気品があり、色鮮やかな洋瓦よりも遙かにモダンだ。
▼館外に出て屋根を見上げる。几帳面に並んだ瓦の列が陽を浴びて輝く様子に、ふと既視感を覚えた。もちろん、誰だって瓦なんか見慣れている。既視感があって当然だが、そういう意味ではない。それが何なのかに気づいたのは、米原からの新幹線の車中で、飛び去ってゆく甍の波をぼんやりと眺めていたときのことだった。
▼それはひと昔前、いや、ふた昔前の、活版の町工場である。屋根形というには角度が急すぎるが、傾いた植字台に整然と並ぶ活字の列である。小さな工場では活字を再利用したから、谷(counter)の部分にはインクがこびりついて、全体としては黒っぽく見えるのだが、裸電球の光に、時おり字面が金属本来の輝きを放つ。それは風雨にさらされた瓦屋根が、古びてくすみながらも朝陽夕陽に輝くのと、何とよく似ていることか。
▼そういえば江戸時代には「瓦版」というものもあった。粘土に文字や絵を彫り込んで瓦の製法で焼き、これを原版とするスピード印刷の技法だ。この場合は似ているのではなく、瓦であり、同時に版でもある。
▼今ではもう、活版の現場を知る編集者は少なくなった。しかし、組版の実物を見れば、差し替えがいかに大変だったかは一目でわかる。ゲラ箱を持ち上げてみれば、活版職人がどれほどの重労働を強いられていたかが一瞬にして理解できる。単なる懐古趣味ではなく、現在の技術革新の意義を理解するために、若い編集者諸君には、たとえば博物館で、活字組版の実物に一度は接してほしいと思う。
▼とはいえ、組版の現物を見ても、工場見学をしても、それだけではわからないことも多い。たとえば、書籍の本文書体としてデジタル時代の現在もなおスタンダードの地位を保つ「明朝体」は、いつ、どこで生まれたのだろうか。それはどのように変化し、その過程にはどんな人びとがかかわり、いかなる苦労があったのか。そもそも、何で「明朝体」なのか。
▼こうした疑問に徹底的かつ実証的に答える本が出版された。印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』である(柏書房発行、定価=本体9500円+税)。
▼正直にいえば、僕自身はまだこの本を通して読んだわけではない。今のところ、豊富な図版を眺めながら、ポツポツと拾い読みしている段階だ。なにしろB5判518ページ、厚さ36ミリ、重さ1.4キロの本を、電車のなかで読むわけにはいかない。詳細な内容の紹介はまたの機会に譲り、今回は主要目次を紹介してお茶を濁させてもらうことにしよう。
(かわら者)

▼本と活字の歴史事典/目次
きりしたん版について 大内田貞郎
駿河版銅活字――その成立と鋳造技法の解析 百瀬 宏
ヨーロッパ人による漢字活字の開発――その歴史と背景 鈴木広光
明朝体、日本への伝播と改刻 小宮山博史
幕末の洋書印刷物――活字による見分け方 高野 彰
和文鋳造活字の「傍流」 府川充男



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