読書の周辺

魚名の由来

坂本 一男


 オオクチ・ソゲ・テックイ・ミビキ……。ある有名な魚のいろいろな地方での呼び名の一部である。どんな魚かおわかりであろうか。オオクチは中国・四国周辺の、ソゲは千葉・神奈川県の、テックイは北海道の、そしてミビキは富山県でのヒラメの呼称である。もちろん、これですべてではない。代表的なものだけでも30以上ある。
 『国際動物命名規約』によれば、どの言語の名称であれ、学名scientific name以外の名称はすべて俗名vernacular nameである。ヒラメ(と日本で一般的に呼ばれている魚)の場合、学名Paralichthys olivaceusパラリクテュス・オリウァケウスのほかに、ヒラメ(標準和名)・オオクチ(日本の地方名のひとつ)・bastard halibut(英名のひとつ)・牙鮃(中国名のひとつ)などの俗名を多数もっている。学名は、ある種が新種として発表されるときに与えられるもので、ラテン文字で綴られる。標準和名は単に和名ともいわれ、たとえばそれまで日本人になじみの深い魚であれば、明治以降に地方名の中から研究者によって選ばれ、今日定着したものである。魚によっては、名前が地方ごとに異なるだけでなく、季節や成長に伴って変わる場合もある。たとえば、桜の時期のマダイはとくにサクラダイと呼ばれる。ブリの場合、成長につれてワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ(関東)やモジャコ→ワカナ→ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ(関西)と呼称が変わる。出世魚といわれる所以である。
 現在、日本とその周辺海域には3700種ほど(世界では2万5000種以上)の魚が分布することがわかっている。一方、魚名については、地方名の数があまりにも多く(たとえば、メダカには数千の地方名がある)、標準和名以外の魚名の総数は推定すら困難である。今となっては不明なものもあるが、ひとつひとつの魚名にはそれぞれ由来があり、時には命名にまつわるエピソードもある。ヒラメについていえば、“ひらめ”という名前は室町時代から現れたもので、扁平な体形の魚を意味する平魚(ひらめ)に由来すると今日では一般に考えられている。ところがこれには異論もあって、たとえば新井白石は「其眼の側(ひら)にある……」として眼の位置に注目した命名と考えていたのである。
 ここでは、日本最古の魚名が記録されている『古事記』と最近の命名の例として「新顔の魚」を取り上げ、日本における魚名の由来について考えてみたい。

『古事記』の魚たち

 『古事記』には“わに”・“すずき”・“たひ”・“あゆ”・“しび”の5つの魚名が登場する。最初に出てくるのは和邇(わに)である。爬虫類の“ワニ”ではなく、“サメ”のことである。大国主神の章に、淤岐嶋(隠岐)の兎が稲羽(因幡)に渡りたいと思い、“サメ”を騙したために丸裸にされたことが出ている。『出雲風土記』では和爾(わに)や沙魚(さめ)、『壹岐国風土記(逸文)』に■(魚へん+台)鰐(おほわに)、『日本書紀』には鰐・鰐魚・熊鰐などとして登場する。このためであろうか、山陰地方では“わに”は近世までサメ類の方言となっていた。鮫という字は平安時代から使用されるようになったもので、当時の辞書『倭名類聚鈔』(『和名抄』)には「鮫 和名佐米(さめ)……」とある。
 “さめ”の語源について新井白石は、“さ”(狭)“め”(眼)で眼が小さいからと考えた。このほか、“さ”(沙)“み”(魚介)のことで、皮が砂のようにざらざらしているからとか、“いさ”(斑)“め”(魚)で斑紋のある魚とする意見もある。
 大国主神の章にスズキ(「鱸 訓鱸云須受岐(すずき)」)を料理したことが出ている。『出雲国風土記』にも、南の入海(中海)に鯔なよし(ボラ)・鎮仁(ちに)(クロダイ)・須受枳(すずき)などがとれると記されている。『万葉集』では鈴寸とある。中国では鱸は四鰓魚ともいわれ、スズキではなく、カジカ科(カサゴ目)のヤマノカミではないかと考えられている。『和名抄』(平安時代)には「鱸 和名須々木」とある。
 “すずき”の語源については諸説がある。貝原益軒は“すゝぎ”るように身が白いからとし、新井白石は“すす”(小さい)“き”(鰭)のこととした。また、“すす”(神聖)“け”(饌)で、神に食物として供える魚であるとか、“すす”(清)“き”(魚)または“すす”(細)“き”(魚)で、形の美しい美味な魚のことではないかとの考えもある。出世魚のひとつで、江戸時代の『本草綱目啓蒙』にも、江戸では一年を“せいご”、二年を“ふっこ”、三年を“すずき”といい……とある。
 火遠理命(山幸彦)の章に、山幸彦が兄の火照命(海幸彦)から借りた鉤(釣針)を魚にとられ、その鉤を探しに龍宮にいった時、“赤海■(魚へん+皀+卩)魚”が詮議され、その喉に鉤が刺さっているのが発見された話が出ている。この魚が“たひ”(マダイ)である。『日本書紀』にも同じような話があるが、こちらでは赤女(あかめ)(マダイ)と口女(くちめ)(ボラ)が詮議され、口女から鉤が発見されている。本書では、(海)■(魚へん+皀+卩)魚・赤女・鯛魚・赤鯛・鯛女などさまざまに表記された。『肥前国風土記』には、「海には……鯛、鯖……あり」とある。『万葉集』でも鯛。もともと骨が柔らかい魚のことである鯛を“たひ”に当てたのは、まんべんなく調和がとれて、どこでも見ることができる(周、あまねく)魚であるからではないかと考えられている。平安時代の辞書『和名抄』には「鯛 和名太比(たひ)」とあり、『延喜式』には平魚とも記されている。時代とともに“たひ”は多くの書物に見られるようになり、安土桃山時代の『日葡辞書』には「Acamedai アカメダイ、Vofira ヲヒラ(“たひ”の女房詞、宮中の女官の詞)」などが出ている。
 江戸時代になると辞書・本草書・産物誌・料理書などが数多く出版されたが、ほとんどの書物で“たひ”のことが取り上げられている。この頃には、黒鯛と区別するために真鯛と呼ばれたこともあった。本草学者は鯛より棘鬣魚(鬣たてがみは背鰭のことで、背鰭に棘のある魚)を好んだという。“たひ”を“まだひ”と表記するようになるのは明治もしばらくしてからのことである。
 ところで、江戸時代には多くの図譜が描かれたが、外形を写生したものがほとんどであった。しかし、大変珍しいことに後期には“たひ”の骨格図が描かれている(図参照)。


 “たひ”の語源について、“た”(平ら)“ひ”(魚)からとするのが一般的であるが、異論もあって、たとえば貝原益軒は朝鮮語の“トミ(道味魚または棹尾)”からとしている。かつて、渋沢敬三は『日本魚名の研究』で、“タイ”はコイ・アユ・サバなどと同じように、魚名としての歴史も長く、今では意味や由来のはっきりしない一次的魚名であるとみなした。語源はさておき、“タイ”が今ではあまねく知れ渡った名前ということだけは間違いなく、現在知られている日本産魚類約3700種のうち約350種の和名の語尾は“タイ”である。しかし、日本産のタイ科はマダイ・チダイ・クロダイなど13種にすぎない。また面白いことに、本家のタイ科にはキチヌなどのように「タイ」のつかない魚もいる。
 仲哀天皇の章に、神功皇后が裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして年魚(あゆ)を釣った話が出ている。『日本書紀』の「神功皇后 摂政前紀」では、この釣りの時、「若し事を成すこと有らば、河の魚鉤飮へ」と(新羅出征の幸先を)占った(神意を問うた)ことが記されている。これが、本来ナマズを指す鮎がアユに当てられた理由といわれる。当時アユは全国でとられていたようで、『風土記』では常陸・出雲・肥前ほかで産することが記されている。『万葉集』にはこの魚を詠んだ歌が15首もある。奈良時代には、年魚のほかに細鱗魚・阿喩・鮎・阿由・安由などさまざまに表記された。平安時代の『和名抄』には「鮎……和名安由(あゆ)……」とある。年魚はアユが一年で一生を終えることからである。近世まで、■(魚へん+條)魚・香魚・王魚など実にさまざまな漢字が当てられた。
 “あゆ”の語源について、貝原益軒は、「あゆる」は「落ゆる」で、アユが秋に産卵のために川を下るからといい、新井白石は“あ”(小)“ゆ”(白いもの)で、白い小魚とした。“あへ”(饗)や、“あ”(愛称)“ひ”(魚)の転じたものとする考えもある。
 清寧天皇の章に志毘(しび)や斯毘(しび)と記されているのは“マグロ”(キハダ・クロマグロなど)と考えられている。『日本書紀』には思寐(しび)や鮪(しび)などと出ている。『出雲風土記』は志毘や志毘魚である。『万葉集』では鮪。鮪は■(魚へん+尋)の異名で、本来シナヘラチョウザメ(トラザメ・アカエイのような軟骨魚類ではなく、硬骨魚類・チョウザメ目・ヘラチョウザメ科の魚である。もうひとつの科がキャビアで有名なチョウザメ科)のことである。平安時代の辞書『和名抄』には「鮪 一名黄頬魚 和名之比(しひ)」とある。室町時代までには“しび”になっていたようで、安土桃山時代の『日葡辞書』には「Xibi シビ」とある。
 “しひ”の語源は、“し”(宍、獣肉)“み”(魚介)、または、“し”(宍)“ひ”(魚)であろう。獣のような赤い肉の魚ということである。
 『和名抄』の“しひ”は「黄頬魚」とあることから、体側の黄色が目立つキハダのことである。しかし、“きはだ”は黄肌からではなく、“き”(黄色)“はた”(鰭)からである。キハダは江戸時代には、“きはだ”・“ましび”・“おほしび”・“はつ”などと呼ばれた。現在キワダと呼ぶこともあるが、これはキハダの転である。クロマグロはキハダと区別されて、“くろしび”・“こしび”・“まぐろ”・“めじ(か)”などと呼ばれた。江戸時代にはメバチとビンナガも区別していた。
 “まぐろ”の呼称は、真黒や目黒からと考えられている。「背が青黒い」、「肉が赤黒い」あるいは「眼が黒い」からであろう。クロマグロが和名として定着したのは新しく、1960年代になってからのことである。現在世界中のマグロ類は7種類に整理されているが、そのうち5種類は日本周辺でも見ることができる。上記の4種以外のマグロであるコシナガは、1915年に岸上鎌吉博士(元東大教授、1867〜1929)によって新種として発表された小型のマグロである。

『新顔の魚』たち

 日本でもっとも多くの新種を発表、すなわち学名をつけたのは“日本魚類学の父”といわれる田中茂穂博士(元東大教授、1878〜1974)で、その数は170にもおよんでいる。しかし、もっとも多くの和名をつけたのは田中博士の2番目の弟子となった阿部宗明ときはる博士(おさかな普及センター資料館名誉館長、1911〜96)である。博士は水産庁の研究所在職中から、分類学的研究のかたわら長年、魚・魚学の普及・啓蒙に務めた魚類学者である。ちなみに、最初の弟子はハゼの研究で有名な冨山一郎博士(元東大・九大教授、1906〜81)で、ハゼ研究者として世界的に知られる明仁天皇を指導した。阿部博士は新種も30以上発表しているが、その何倍もの外国産魚に日本語の命名を行った。ドイツ語の辞書などでもヨーロッパの魚に和名をつけたりしていることもあり、その総数は不明であるが、築地に入荷する海外の魚を中心に扱った『新顔の魚』(1970〜95)(伊藤魚学研究振興財団発行)だけでも100種以上に和名を与えている。
 『新顔の魚』の和名を概観すると、阿部博士の命名法はよく知られている近縁の日本産魚類の名前に産地名(分布)や形態的特徴をつけるというものであることがわかる。産地名としては、アメリカ・カリフォルニア・オーストラリア・ニュージーランドなどのような固有名詞のほかに、ニシ(西、主に大西洋)やミナミ(南、南半球)などがある。モト(元)も大西洋という産地を表していることが多い。学名を普及させたヨーロッパ(人)に敬意を払ったのであろう。形態的な特徴としては、オオ(大)・クロ(黒)・シロ(白)・マル(丸)・シマ(縞)などをよく用いた。語幹をみれば日本の近い種類がすぐにわかる。このようにして、アフリカフサカサゴ・ミナミホウボウ・ニシマガレイ・シマアマダイなどが誕生した。命名(和名だけでなく学名も)の際に、形態的特徴や分布などを考慮することは分類学者としてふつうであって、何も博士が特別というわけではない。博士の特徴は、やや単純である、したがってわかりやすいこと、そしてなによりも“食用”という点を強く意識していたことである。“新顔の魚”を一般に普及させたいという願いを名前にこめた。マルアナゴ(1989年命名)はその典型であろう。これは、南米では美味とされているウミヘビ科の一種で、もちろん爬虫類ではなく、ウナギ・ハモ・マアナゴなどの親戚である。しかし、博士によれば、これはマルウミヘビではなくマルアナゴである。
 もちろん、例外も多く、生態的特徴をつけたり、現地名をそのまま当てたりもした。中には愉快なものもある。1978年、カサゴにそっくりな魚が新種としてソ連(当時)の雑誌に発表された。この時、阿部博士はニュース番組の中で「日本の魚類学者が気づかずウッカリしていました。それでウッカリカサゴと名づけました」と答えられた。このほか、卵がキャビアの代用になる北大西洋のランプフィッシュ(日本のホテイウオやダンゴウオの仲間)につけたヨコヅナダンゴウオも愉快な名前である(図参照)。


 ところで、東京都中央卸売市場(築地市場)には、ほかの魚に混ってきたものや稀にしか見られない魚も含めると、ここ数年で700種近くが入荷している。このうち、約150種が海外からのものである。和名のない魚は、現在、産地名とともに日本の近い種類の名前で呼ばれることが多い。日本人の食材として定着しそうなものについては、近い将来和名をつける必要があるかもしれない。責任を少しだけ感じはじめている今日このごろである。

 尚、本稿は『食料市場新聞』平成12年1月1日の拙文に加筆したものである。
(おさかな普及センター資料館長)



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