読書の周辺

『ア・コース・イン・ミラクルズ』
が喚起するもの


大内 博


 言葉が飛び交う時代である。人間の歴史の中でこれほどまでに多くの情報が入手可能だったことはなかった。毎年膨大な量の本が出版され、雑誌、新聞、ラジオ、テレビ、映画、ビデオ、携帯電話、ファックス、そして、インターネットなどなど、様々なコミュニケーションの媒体を通して、人間同士の関わり合いが展開されている。そして、その中心にあるものは言葉だ。
 私は大学で社会言語学、特にコミュニケーションに焦点を絞った分野の講座を担当していることもあり、人が人と接触する時に、言葉がどのように働き、どのように使われているかには特に関心を持っている。そういう観察をしていて、最近感じることのひとつに、「言葉が軽くなってきている」のではないかということがある。
 厳密に言えば、「言葉が軽くなる」ということはあり得ない。言葉は言葉である。正確に言えば「言葉と言葉を使う者の関係が軽くなっている」ということかもしれない。そんなことを考えるきっかけになったのは、「死ね!」という言葉を小学生が友だちに向かって平気で使っているのを聞いたことであった。ものすごい喧嘩をしているという状況でもなく、相手に対して非常な憎悪をもって叫んでいるのでもない。いわば遊び半分で「死ね!」などと言っている。
 こういう言い方はアメリカでも聞かれる。If you do that, I'll kill you.文字通りに翻訳すれば、「そんなことをしたら、あなたを殺すよ」となる。これは子どもだけではなく大人でも使っている。ギャング映画のひとこまでもない、日常生活の中で、一種の警告の表現として使われているのである。これを聞いた人も、相手が本気で「殺す」だろうなどとは考えない。白髪三千丈と同じ誇張表現であると解釈することも可能かもしれない。誇張であることは確かであるが、問題は、誇張の対象が「殺す」という生命に関わる衝撃力を持った言葉であるということにある。
 その結果何が起こるか。「殺す」と言うだけで殺さなければ、それはめでたいことではあるが、言葉の現象として考えれば「殺す」という言葉の力は弱体化する。別な言い方をすれば、「殺す」という言葉と、それを使っている人間の関係が弱体化する。言葉の持つ意味性が希薄になる。
 これと同じように、私たちの身の回りを見回してみると、言葉を希薄にしている現象がやたらに目に付く。日本の高速道路の速度制限はだいたいの場合、時速80キロである。しかし、この制限速度を守って走っている車はそれほど多くはない。90キロ、100キロは普通で、110キロ、120キロもざらである。そういう車の流れの中で制限速度を守ったりすると、かえって危険を増すというようなことも考えられる。雨が降ると、制限速度は時速50キロになることが多いが、これなども全くと言って良いほど無視されている。
 これは高速道路をドライブしたことのある人なら誰でも知っている事実である。警察だって知っているに違いない。制限速度が有名無実になっている。言葉という観点から言えば、「制限速度」という言葉の意味が失われている。たぶん、そういう事情を考慮して、制限速度を時速140キロにしようという話がでてきたのであろうが、言葉と現実の距離を埋める方向へと改正してもらいたいものである。
 もう一つの例をあげると、「激安!」という言い方がある。観光地など車を走らせていると、時々この看板が出ていて、果物や野菜などが売られていることが多い。「激安」というのは、まさに激しい言葉で、ずいぶんと強いインパクトのあるものだが、実際の価格は多少は安いとしても、とても「激安」という言葉のイメージに応えるほどの安さではない。これはまさに商魂が言葉を操っている好例で、この種の例はテレビのコマーシャルを初めとして枚挙に暇がない。
 このような現象に共通していることは、言葉の意味と現実の乖離である。言葉が持っている意味と、それが指示ないしは引き起こす現実との間のズレが増大しているように見える。これは、言葉と現実の間にある宿命的な問題ではあるが、その度合いが、現代の忙しい生活の中で加速的に拡大しているのではないかと思われる。
 日本には古来から「言霊」という概念が存在する。言葉の中に「霊的な力が宿っている」という考えであるが、私もこれは真実ではないかと思っている。しかし、私たちが言葉をあまりにも気軽に、誠実さを欠いた心で使うとき、言霊の力は私たちのものとなることはないのではないかと感じる。あわただしい生活にただ流され、言葉と現実が乖離した状態の中で使う言葉からはエネルギーが失われてしまうのではないか。自分の現実を静かに見つめ、誠実に言葉を発するとき、まさに言霊が動き出し、私たちと関わり出すのではないかと思うのである。
 私は14年ほど前に、『ア・コース・イン・ミラクルズ』(A Course In Miracles)という1200ページから成る本に遭遇した。この本がどのようにして誕生したか、その経緯をこの本の序文で読んだときに、まさにその意を強くしたのだった。
 時は1965年に遡る。ビル・テットフォードはニューヨークのコロンビア大学医学部の教授であり、同大学所属の長老派教会の病院の心理学部の責任者をも務めていた。ヘレン・シャックマンは同学部の教授であったが、『ア・コース・イン・ミラクルズ』のドラマはこの2人が発した言葉から始まった。1965年の6月のある日、ビル・テットフォードはコロンビア大学全体の学部長会議に出席したが、学部長の仕事にほとほと嫌気がさし、落ち込まざるを得ない状態であった。各学部の利害の対立、調整を行うための会議であったが、調整どころか対立の溝は深まるばかりであった。ビルはヘレン・シャックマンと数年間同じプロジェクトに取り組んでいたが、あるとき、そういった会議に出席する直前に、ビルがThere must be a better way.(これよりも良いやり方があるに違いない)と思わずつぶやくようにヘレンに言った。それを聞いたヘレンは、すかさず、We'll find this together.(一緒に見つけましょう)と答えた。
 この会話が交わされてしばらくして、ヘレンは声を聞き始める。冷徹な心理学者であるヘレンはこの異常な現象に自分は気が狂ったに違いないと思って、ビルに相談する。ビルはともかくどういう言葉なのか、それを書き留めて見たら良いではないかと提案し、ヘレンは半信半疑ながらも自分の耳に聞こえる声を書き始める。ビルはヘレンが手で書いたものをタイプするという仕事を自ら買ってでる。こうして二人のチームワークができあがり、様々な紆余曲折を経ながらも、7年間にわたってヘレンはこのメッセージをチャネルとして伝え、できあがったのが『ア・コース・イン・ミラクルズ』である。
 いわゆる超常現象を通じて1200ページに及ぶメッセージが伝えられたわけであるが、そのチャネルになったヘレン・シャックマンは理知的で、無神論者で、スピリチュアルなことには懐疑的で全く関心のない人であった。にもかかわらず、そのメッセージの深遠性に心を動かされ、理性と心の葛藤に悩みながらもその仕事を完了したのである。
 それでは、この本はいったいどのような内容の本なのだろうか。英語では既に150万部出版され、フランス語、スペイン語、中国語でも既に出版され、現在様々な言語への翻訳作業が進行中である。実は日本語への翻訳は私が縁があって取り組んでいるところであるが、あと4年後に出版の予定で作業を進めている。それだけ多くの人々の心を動かしているこの本のメッセージはきわめて深遠であるが、その教えの本質はタイトルの『奇跡についてのコース』(仮題)に要約されている。この本の冒頭は次の言葉で始まる。
 これは、奇跡についてのコースである。これは必修のコースであり、あなたに任されているのはいつそれを学ぶかだけである。自由意志とは、あなたがカリキュラムを設定できるという意味ではなく、ある時に何を学ぶかを選択できるという意味である。このコースは「愛」の意味を教えようとするものではない。「愛」の意味を教えることは不可能である。このコースの目的は、「愛」が存在することについての自覚を妨げている障壁を取り去ることにある。「愛」はあなたの生得の権利として存在する。「愛」の反対語は恐れであるが、全てを包含するものに反対語はない。

 したがって、このコースは次のように端的に要約することができる。

 実在するものは、存在を脅かされることはない。
    非実在なるものは存在しない。

 私自身の理解不足のために、今の時点でこのコースのメッセージを正確に要約して伝える自信はない。しかしながら、私が体験した真実ならば私なりに伝えることは許されるかと思う。
 まず、「奇跡」の意味であるが、このコースではいわゆる「常識ではあり得ない不思議な出来事」という意味ではなく、「私たちが知覚(物の見方)を変えることによって愛を体験すること」という意味で使っている。やや極端な例をあげれば、自分の娘をレイプした人間を、その行為は責められるものとしながらも、赦すことができたときそれは奇跡であるという。つまり、「奇跡」とは、外的な出来事ではなく、完全に心の動きであり、赦しの行為であり、認識の転換であるとコースは教える。
 このコースがヘレン・シャックマンを通して伝えられた主たる目的は、組織としてのキリスト教の中で歪められてきたイエス・キリストの教えを正しく教え直すことであるとコースは言う。例えば、人間は罪深い存在であるというのはキリスト教において一般的な概念である。罪のある人間を救済するために、イエス・キリストは十字架に架けられたと考えられているが、イエスは赦しを教えるためにこそ十字架に架けられることを選択したとコースは教える。すなわち、人に神の愛を教え、人を愛し、人を癒すことしかしなかったイエスが十字架に架けられても、それでもなお兄弟としての人間を責めることなく赦し、愛するという宣言をするために十字架に架けられたのだとコースは語る。
 このコースの目的は序文にも述べられているように、愛を教えることではなく、愛を体験することを妨げている障害物を取り除くことである。その障害物の最たるものは兄弟(姉妹)に対する裁きの思いであると言う。私たちの日常生活をちょっと振り返って自分の心の在り方を内観してみれば、私たちは殆どいつも他人を裁いていることに気づくのではないだろうか。言葉に出す出さないは別にして、他人の欠点を探し、批判するというのは現代社会のきわめて一般的な心の在り方である。そういう状況をふまえて、「あなたの兄弟(姉妹)こそあなたの救世主である」とコースは宣言する。つまり、あなたが兄弟を裁くことなく、そこに愛だけを知覚し、体験したとき、初めてあなたは救われるというのである。
 これだけでも、従来のキリスト教の教えに対して急進的に対決した教えであることはおわかりいただけるのではないだろうか。このコースの言葉にインスピレーションを与えられた人々が、「愛の教師」としてこの教えを広めている。それは別に教会を建て、宣教師として教えを広めているという意味ではなく、自らの兄弟姉妹を自分の救世主とする活動である。恐れではなく、愛を持って人を見、人に接し、愛を体現しようとする生き方、それが「愛の教師」の仕事であるという。
 この小論の前半で、言葉と人の関わり合いの意味が希薄になっているのではないかと書いた。その関わり合いが希薄になるとき、「言霊」の力を体験することもできなくなるのではないかとも書いた。
 これに対して、ビル・テットフォードとヘレン・シャックマンの体験は、言葉との関わりを深めることによって、「言霊」が呼び起こされ、ルドルフ・シュタイナーが言うところの“高次の魂”との接触が可能になったことを示しているとも考えられる。
 現代に生きる私たちは実に忙しい生活を強いられている。いや、正確に言えば、それを選択している。そういう忙しさの中で、言葉との関わりが希薄になり、存在が軽くなり、宙に浮きかねない状況にあるとも言える。
 『ア・コース・イン・ミラクルズ』に言わせれば、“実在するものは存在を脅かされることはない”。つまり、私たちと言葉との関係が希薄になって、その分言葉が表し得る真実から遠ざかってしまったとしても、実在する真実は何ら影響を受けることはない。とすれば、実在するものとは何かを、言葉との関わりの中で探究するのもおもしろいのでないかと考えている。
(玉川大学教授)



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