読書の周辺

シンガポールの情報政策と21世紀

倉橋 英逸

 1 カナダとアメリカ合衆国の情報政策

 アメリカ合衆国のクリントン政権は、 情報は国の重要な経済資源の一つであり、 世界市場と国際競争力にとって、 情報の生産・処理・管理・利用の技術はアメリカ合衆国にとって戦略上重要であるとして、 1993年にいわゆる情報スーパーハイウエーといわれる国家情報基盤(National Information Infrastructure: NII)構想を打ち出した。
このような状況の下で、 現在、 情報の分野では、 アメリカ合衆国は世界をリードし、 民間企業はもちろん、 政府、 医療、 教育、 文化等のあらゆる分野で、 情報技術(Information Technology:IT)が導入されつつある。
 カナダも基本的にはアメリカ合衆国と同じ方向をめざしており、 筆者には、 カナダやアメリカ合衆国の情報分野全体の動向についての知識はないが、 一昨年、 大学における情報技術を導入した図書館情報学教育の調査のために、 カナダ、 アメリカ合衆国の大学を訪れたときは、 大学の教育・研究に情報技術を導入するために、 大学全体が激動の真っ只中にあるという印象をうけた。
 国家政策としての情報スーパーハイウエー構想に対する大学の受けとめ方はさまざまであったが、 大学の計算機センターは、 急速にネットワーク・サービスと利用者支援サービスに移行しており、 大学図書館もさまざまな情報技術を導入して、 電子メディアによる情報サービスを強化していた。 新しい動きとしては、 さまざまな情報メディアを統合して、 計算機センターと図書館との中間的な情報サービスを提供する機関が大学に設立されていたことであった。
 このような情報資源環境の中で、 図書館員を含む幅広い情報専門職を養成する図書館情報学教育の中にも各種の情報技術が導入されていた。 たとえば、 Webの中に科目のシラバス・教材・文献・メール・チャット・テレビ会議等を組み込んだ遠隔教育の方法は次世代の教育方法として大きな可能性をもっており、 キャンパス内の授業にも応用できるとして、 各大学でこの授業方法の開発が進められていた。
 アメリカ合衆国のケロッグ財団は図書館情報学教育のカリキュラム改革のために多くの大学に対して多額の助成を行っていた。 大学の教員が授業の中に新しい情報技術を導入することを総合的に支援する教育技術センターが各大学に設置されていたことも特徴的であった。
 カナダやアメリカ合衆国などの情報先進国における情報政策は、 民間や公共機関における情報技術の開発や導入の指針・調整的な性格が強く、 民間主導型の情報政策と思われる。 これに対して、 シンガポールの情報政策は、 以下に述べるように、 計画的に進められる政府主導型の情報政策ということができる。

 2 シンガポールの情報政策
   ―インテリジェント・アイランド―

 独立してからのシンガポールは、 政府の強力な指導力の下に工業化が進められ、 驚異的な経済成長を遂げた。 政府はその労働力を補うために外国人の就労を認め、 1970年には外国人労働力の割合は11.5%に達した。 しかし、 1979年にはそれまでの労働集約的な産業から資本・技術指向の産業へと方向転換を図った。
 この政策により政府は情報技術を早急に導入するために、 1980年に閣内に国家コンピュータ化委員会(Committee on National Computerization)を設置した。 その後、 国を情報化社会に転換するために1981年には国家コンピュータ会議(The National Computer Board)を設置し、 情報技術を活用する戦略として、 1985年に国家情報技術計画(National IT Plan)をまとめた。 その内容は、 1)情報技術マンパワー、 2)情報技術文化、 3)情報通信インフラストラクチャ、 4)情報技術の応用、 5)情報技術産業、 6)創造性と企業家精神の風土、 7)調整と協調、 であった。
 シンガポールの国家発展のために情報技術の力を積極的に利用しようとする経済的な理由は、 1)経済発展のために外国人労働者に頼ることは社会コストが高くなるので、 情報技術の利用により国民の労働生産性を高める必要がある、 2)国際競争力を高めるためには、 すべての産業にわたってコストを下げ、 生産やサービスの独自性を高める可能性を秘める情報技術の導入を競争相手より広範囲に革新的に進めなければならない、 3)情報技術はビジネスの国際化の動脈であり、 シンガポールを国際経済に直結させる総合的なビジネス・センターにすることが経済戦略の要の一つである、 と考えているからである。
 このような背景の中で、 国家情報基盤(NII)を構築するために、 1991年には 「インテリジェント・アイランド」(Intelligent Island)をめざした通称IT2000と呼ばれる国家情報政策が発表された。 その達成目標は、 1)世界のビジネス・センターを育成する、 2)個人の生活の質を高める、 3)企業の経済推進力を高める、 4)地域社会の内部と世界とを結ぶ、 5)個人の潜在能力を高める、 であり、 情報技術により国際競争力と国民生活を高めようとしたのである。
 ITという用語は、 Information Technologyの略称であるが、 ここでは、 単なる情報を処理する技術ではなく、 社会全体のあり方を変化させる技術としてとらえられている。
 3 シンガポールの図書館政策―学習する国民―

 IT2000マスター・プランの具体的な活動分野の一つとして、 ライブラリー2000レビュー委員会が国全体の図書館システムの全面的な改革案をまとめ、 1994年に「学習する国民」(Learning Nation)への情報サービスをめざすLibrary 2000と題される勧告が政府に出された。 Library 2000のビジョンは、 シンガポールの発展を支援するために情報サービスや学習機会を提供する国家的な図書館ネットワークと情報資源センターを通じて国民の学習能力を継続的に拡大することである。
 Library 2000の勧告の達成目標は、 1)適応性のある公共図書館システム、 2)ボーダーレス図書館ネットワーク、 3)調整された国家的蔵書構築戦略、 4)市場原理に基づいた高質サービス、 5)ビジネス界や地域社会との共生と連携、 6)世界の知識への仲介、 というように国家戦略としての図書館政策の要素が強い。 この目標を達成するための重要な推進力として、 1)人的資源、 2)技術、 3)組織的リーダーシップを挙げており、 人材養成の重要性を強調している。 この勧告により、 図書館員を含む幅広い情報専門職を養成するために、 ナンヤン技術大学の応用科学部に情報学科が設置され、 また、 テマセク・ポリテクニクの情報技術・応用科学部にも情報学科が設置された。

 4 シンガポール・ワン
   ―みんなのために一つのネットワーク―

 IT2000マスター・プランに沿って1996年から職場・家庭・学校などへ幅広いマルチメディア・サービスを提供するシンガポール・ワン(Singapore ONE: One Network for Everyone)と呼ばれる国家的高性能ネットワークが活動を開始した。 シンガポール・ワンは、 1998年から試行的に、 メンバー・サービス、 政府、 情報、 学習、 娯楽、 ショッピング、 金融、 ビジネス、 などの情報サービスを開始した。
 この中の「学習」という項目に、 年齢ごとの学習内容が示されており、 たとえば、 「成人」のところには「オンライン学習環境」と「バーチャル・カレッジ」がある。
 シンガポールには、 社会の指導者を養成する大学として、 従来、 シンガポール国立大学が一校あったが、 IT2000の構想を実現するための人材養成の場として、 1991年に新たにナンヤン技術大学が設立された。 また、 実務的な専門家を養成するポリテクニク(工業専門学校)も四校設立されており、 これらの「オンライン学習環境」と「バーチャル・カレッジ」は、 テマセク・ポリテクニクとシンガポール・ポリテクニクが一般市民に提供するインターネットによる遠隔教育のコースである。
 これらは、 一般的なパソコンとブラウザにより、 いつでもどこからでも受講でき、 一定の資格を得ることができる。 しかし、 自主学習が前提となっており、 学習に対する強い意志と文字によるコミュニケーション能力が要求される。
 またシンガポール・ワンの中には、 国家コンピュータ会議、 国家図書館委員会、 国家科学技術会議の協力によってできあがったTiARA(Timely Information for All, Relevant and Affordable)と呼ばれる電子図書館がある。 この中には、 海外データベース・サービス、 図書館サービス、 インターネット情報資源、 TiARA 児童、 などの情報サービスがある。
 「TiARA 児童」には、 文化、 百科事典、 ゲーム/ホビー、 一般知識、 地理、 歴史、 文学/物語、 数学、 科学、 書き方、 などに関る詳細な学習情報が載せられている。
 たとえば、「文学/物語」の事項には、 さまざまの児童文学の書名が挙がっており、 スティーブンソンの『宝島』を指定すると、 著者、 内容、 関連情報、 課題について、 それぞれ、 著者に関する情報、 本の概要・人物・全文、 船・海賊・宝物・南洋諸島・その他の関連情報、 宝島探検・感想文・小テスト・課題・シラバス・質問欄などを載せており、 児童が自主的に学習できるようになっている。
 この中には『宝島』に関するすべての情報が系統的に載せられており、 語彙も豊富であるので、 かなりの文章の理解力・表現力と自主的な学習力を要求され、 高学年むきである。 しかし、 インターネットの中に音声や動画も入力できる環境が整いつつあるので、 今後は低学年向きのソフトの開発の可能性も高いと思われる。  従来の図書館における児童サービスには、 ストーリーテリングなどがあるが、 お話をする個人の感性に依存する傾向が強かった。 しかし、 このWeb による児童への読書サービスは、 そのシステマティックな内容分析と構成により、 図書館の児童サービスに新たな可能性を与えると思われる。

 5 シンガポールの情報教育―考える学校―

 IT2000の構想を実現するための重要な鍵は人材養成である。 シンガポール教育省は1997年に次世代を担う子どもの教育に焦点を当て、 考える学校(Thinking school)をめざす「IT教育マスタープラン」(The Masterplan for IT in Education)を発表した。 これは、 21世紀の社会の要請に応えるために情報技術を教育の中に統合する青写真である。 21世紀の社会に要求される能力とは、 思考能力(thinking skills)、 学習能力(learning skills)、 コミュニケーション能力(communication skills)であり、 ITに基づいた教育と学習は、 これらの能力を育てる戦略と考えられている。 このマスタープランは、 1)学習環境を豊かにし、 拡大するために、 学校とそれを取り巻く世界との連携の強化、 2)創造的思考、 生涯学習、 社会的責任意識の高揚、 3)教育における革新的な方法の形成、 4)教育システムにおける卓越した管理的能力の増進、 を目標としている。
 この目標を達成するために、 カリキュラムと評価、 学習情報資源、 教員研修、 物理的・技術的基盤、 の各事項についての具体的な計画を示している。 これによると、 2002年までには、 カリキュラムの30%の時間はコンピュータを使う授業とし、 このために、 生徒二人に一台のコンピュータを配置する計画を立てている。 また、 教員に対しても二人に一台のコンピュータを支給し、 教員の個人用コンピュータ購入のための補助金を出すことにしている。
 IT教育マスタープランは、 シンガポールの教育システムに新しいフロンティアを開くものとして期待されている。 シンガポールはコンパクトな小国として、 その基盤をすでに整えており、 大国に比べ、 より速く、 より柔軟に対応できるとしている。 シンガポールの教育省は、 この計画を教師や教育関係者が具体的に実行するための情報をインターネット上に公開している。 この計画は、 政府の強力な指導のもとに実行に移されているが、 教育現場への画一的な情報技術の導入をめざすのではなく、 各々の学校の実状に応じた教師の創意工夫による対応が期待されている。

 6 むすび

 以上、 カナダやアメリカ合衆国と対比して、 シンガポールの情報政策、 図書館政策、 シンガポール・ワン、 情報教育計画、 について述べてきたが、 シンガポールで行われているこれらの改革は、 未知の情報化社会への転換を図る国家的な実験であり、 21世紀のシンガポールがどのような社会になり、 その教育・学習の方法がどのように変化し、 その中でどのような人材が育ち、 書物や読書がどのように位置づけられているかが大いに注目されるところである。(関西大学文学部教授)

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参考文献(ウェッブ・サイト)

1 倉橋英逸、 大城善盛、 小松泰信、 山本貴子 共著 『21世紀の情報専門職をめざして―カナダとアメリカ合衆国の図書館情報学教育と情報環境―』 関西大学出版部, 1998. 4, 302頁
2 IT2000: A Vision of An Intelligent Island. (1998.8.1)
3 Library 2000 Review Committee. Library 2000: Investing in a Learning Nation: Report of the Library 2000 Review Committee. Singapore, SNP Publishers, 1994, 171p.
4 Singapore ONE (1998.8.1)
5 TiARA. (1998.8.1)
6 Masterplan. (1998.8.1)


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