読書の周辺

江戸の中の李卓吾

中野 三敏


 注:漢文の送り仮名と返り点は省略。外字は●で示し、( )内に字体の説明を記した。

 「日本近世に於ける李卓吾受用」というのを今年度の講義題目にした。一見、思想史風のテーマだが、江戸時代というのは現代の様に細分化した学問の時代ではないので、これでも国文学のテーマとしても通用する所がありがたい。それは遅れている証拠だという人もあろうが、そもそも古典研究において、遅れているの進んでいるのという方がナンセンスなので、細分化していない分だけ豊かな時代でもある。

 これ迄、李卓吾といえば、江戸末期、吉田松陰とからめて論じられるのが通例であった。廣瀬豊氏から溝口雄三氏迄、その成果は我々国文学徒も十分に俾益されてきた所である。加えて『李卓吾評忠義水滸伝』の存在は、江戸中期に遡って、水滸伝受用、ひいては馬琴の『八犬伝』に及ぶ江戸讀本(よみほん)の流れを決定づける要素として理解され、江戸文学研究に従事する者にとっては御馴染みの大名題でもあった。しかし、 ありていに言えばそこ迄で、それ以上の関わりは殆ど論及された事がない、と言えば又うそになるので、実は江戸中期の思想界、文芸界に、かの徂徠旋風が一しきり吹き荒れた後、その儒教倫理面からの余りの逸脱ぶりに我慢しきれなくなった反徂徠学派の連中によって、いわば主観唯心論(島田虔次氏『朱子学と陽明学』)とでもいうべき陽明学左派の言説が、恰好の拠り所として援用された際、一方の極として理解されたのが李卓吾の主張であったことは、かく申す小生自身が、数えてみればはや二タ昔ほども前に指摘したことでもあった。但しこれは、以後当の小生自身が、それなりけりに何の結着もつけぬままに放置し、また他の誰一人、その問題は御とりあげにならなかったのは、この活き馬の眼を抜く御時勢に、余程眉唾ものと思われたのでもあろう。その小生が最早来年は定年という歳になってしまったので、ひとまず責任の一端でも果たしておこうかという殊勝な心がけとなったのが、今年の講義にこのような題目をかかげたいきさつと言えば言えよう。

 まことに歳月の歩みは馬鹿に出来ぬもので、あの眉唾ものの思いつきも、二十年の間には結構材料も整ってきた。そうしてみると李卓吾の名前は、本邦近世の知職人にとっては、相当早い内から意識にのぼっていたもので、例の天海僧正の蔵書のうち、叡山眞如蔵旧蔵本の中に、既に卓吾の主要な著書類は、『焚書』・『蔵書』・『続蔵書』・『説書』・『初譚集』と、無論唐本で大方揃っていたようであり、また藤原惺窩門の大儒那波活所は、寛永七年三十六歳の折の「備忘録」に、卓吾編という『開巻一笑』の記事をひいて、中国にも日本と同じような天狗がいるらしいなどとのんびりした事を記し、更にその翌年、家蔵本を列挙した中に『焚書』も入っている。 因みに全部で三十九部著録された内に明版は十一部で、『●(合の下に廾)州四部稿』や『李滄溟文集』なども見え、天海僧正は別格としても、当時の名流儒者の蔵書の大概がわかるのも面白い。活所の先生にあたる惺窩の場合、刊本『惺窩文集』(承応三年刊) の手簡部を見ると、その殆どが唐本の貸借の記事ばかりといってもよい程で、その中でも明人の雑著類を極めて良く読んでいることがわかる。いわば殆ど同時代の受用であり、日中間のタイム・ラグは予想外に少なかった事が、今更ながら実感させられる。但し残念ながら、今の所『惺窩文集』中には、卓吾の影を見出すこと迄は出来ないでいる。

 承応二年には万暦の三高僧の一人と嘔われた雲棲の●(衣編に朱)宏の随筆『竹窓随筆』が和刻本として刊行された中に「李卓吾」と題する二条がある。卓吾を「超逸、 豪勇」と評した後、それが長所であると共に短所でもあると指摘する辺りが、いかにも穏やかな宗風といわれた●(同上)宏らしい。そしてその所以を、 卓吾が始皇帝や馮道を称揚することや、『西廂記』・『拜月記』などの俗文を天下の至文と評価することの当否を以てし、更に総評して卓吾に「人傑」の呼称を与えた上で 『大学』 の「好人所悪、悪人所好、災必逮夫身」の典型だろうと文を結ぶ。『竹窓随筆』を読んでここに至った、当時の我が国の知識人達で、卓吾の人と為りや思想に興味をかきたてられなかった人は、恐らく極めて少なかったのではないか。自然と『蔵書』・『焚書』といった卓吾の主著ヘ導かれる標になった事は確かである。しかもこの『竹窓随筆』は、和刻本としては恐らく当時最もよく読まれたものの一つに数えられよう。 特に仏者に喜ばれたものであるのは当然だが、以後本邦学僧達の多くが、本書のスタイルで随筆を著わすことが流行する。「随筆」という書名が本邦に定着するのも、本書辺りからではなかったかとも思う。それほど本書の影響は大きかったし、ともかく本邦の学者達の頭に、李卓吾の存在は本書によって十二分に刻みこまれた事は間違いない。

 その他、当時のことで言えば、深草の元政上人の蔵書に『焚書』があったことや、やはり明人随筆の白眉として和刻された『五雑組』にも、卓吾を「人妖」と評するなどを挙げることも出来るが、今は暫く措く。 特記すべきは、内閣文庫に現蔵される、紛れもない林羅山手記の『李卓吾先生批點四書笑』と題する唐本の写本一冊の存在である。羅山は明暦三年没ゆえ、それ以前の写である事は動かぬがこの辺りから本邦儒者達は、また卓吾に別の一面を見ることになる。

 本書は内題下に「開口世人輯、 聞道下士評」とあって、卓吾の名は書名の上に角書きで記されるのみであり、卓吾批點というのが何を指し、どこ迄信頼出来るのかも甚だ心もとないが、ともあれ前出の『開巻一笑』と同じく、当時中国でも、この手の、やや艶笑味を帯びた編著類が、多く卓吾編といった扱いで刊行されていたらしいことは、今ではよく知られた事柄でもある。何しろ『水滸伝』・『西廂記』を初めとする伝奇・院本・雑劇類を「絶仮純眞、 最初一念本心」の立場から「古今至文」とほめそやしたのが、卓吾主著の「童心説」の骨子であったのだから、その横流の末端には『四書笑』や『開巻一笑』の如き書物類が多々あったとしても、何の不思議でもなかったろう。ともかく明暦当時、 本邦知識人達が、本書を李卓吾の手になるものとする事を疑う余地は殆どなかったといってよい。

 『四書笑』大本写本一冊、全百十条余、書名から察し得る通り、「四書」の中の文言を自在に用いて、それを笑話に転じてしまう。話柄は男女の交媾・男色・私姦といった猥雑なものから、諷刺的なもの、単なる駄洒落のレベル迄雑多ではあるが、何れにせよ「宰予昼寝」「割鶏焉用牛刀」「如在其上」「三十而立」等々、ともかく儒を学ぶ者なら誰しも見なれ聞きなれたおごそかな文言ばかりが、思いもかけぬ状況の中にはめこまれて、何とも滑稽な意味に変ってしまう所、まさに破顔一笑、上々の読後感を生む。羅山先生も巻末に自ら感想を朱書して曰く、「羅山子 莞示考之」と。如何なる大儒といえども、いや大儒なればこそ、時には几辺にのびをするのも必要なことだったに違いない。

 夫婦交媾 夫嫌其妻陰寛 妻曰 不難 放我在上便緊矣
 夫曰  何也 曰 居上不寛

 上は「居上不寛」と題する一条。「居上不寛」は『論語』八侑中の語。人の上に立つ者に必要な寛容の徳目を説く。「交媾」は「交合」と同意、カミニイテをウエニイテと訓じた本文の文意はいちいち解説するには及ぶまい。

 学徒有父名良臣者 凡遇良臣二字 皆読為爺々
 読孟子曰 今之所謂爺々 古之所謂民賊也
  此子呼其父耳 百姓亦呼官為爺々 益見此語不謬

 上は「良臣」と題する一条。『孟子』告子下の一句「今之所謂良臣 古之所謂民賊也」によるもので、良臣、すなわち能吏というものは、要するに民の方からみれば恐ろしい盗賊の様なものという意。それをつい不断の口癖で「今ノ所謂オトッツアンハ」と訓んでしまったという粗忽話にすぎないのだが、つけ加えられた評語では、農民は苛酷な官吏に対しても「爺々」と呼ぶので、まさに真をうがっているではないか、という諷刺の一条となっている。

 このような文章作法を「断章取義」という。章を断ち、義を取るの意。詩文全体の意味や作者の意図に関わらず、その一部分のみを切りとって別の意味に用いること。本邦の東涯先生著『讀詩要領』では「一句二句のことば一章の内にありては義理かくの如く、その一二句を取はなして用ふる時は、格別のことに成るをいふ」と説明される。即ち歴とした作詩・作文の技法でもあるのだが、このようにふざけた用い方も出来る所が面白い。本歌取りとパロディの関係とも言える。羅山先生も大いに面白がってわざわざ写させたものでもあろう。林家の文庫中におかれて塾生達の間でも結構楽しまれたものらしい。 羅山没後丁度百年ほどたった宝暦初年、この頃は林家や聖堂の官学が、民間の徂徠学派と最も眤近な間柄になった頃で、林家員長の井上蘭台や、熊本藩儒の秋山玉山など、まるでどちらの学派かわからぬようなくだけぶりを示している頃だが、その蘭台先生が、恐らくこの羅山手沢本を文庫の中で見た挙句、それなら「四書」の代りに当時大流行の『唐詩選』を使ってやってみようかと、気の合った門人達と相談一決、出来上って刊行したのが『唐詩笑』という小本一冊であった。全二十二章、章題にはすべて『選』中の作者名を用い、本文はその作者の詩句を断取する。

 魏徴
 陰痿者為龍陽之破曰 縦横計不就 駆馬出関門
 人生感意気 功名誰復論
  變童曰 秋風吹不尽 總是玉関情 国音秋与臭近

 魏徴は初唐の人。『選』中には巻首に「述懐」二十聯の一首がとられるが、「縦横…」以下はその二十聯中の有名句、特に「人生…」の一聯は人口に膾炙する。附言の「秋風…」は李白の「子夜呉歌」の句、これ又有名句だが、細注の「秋は臭に通ずる」という辺り、どうもクドい。やはり真似たものはどうしてもクドくなるものらしく、『四書笑』全体と比べても、その猥褻の度を甚しくする。クドさついでに略解すれば、「龍陽之破」は男色の水揚げとでも言う所、それを「陰痿」気味の中年男が無理に行うので「縦横計不就」で、気ばかりあせってうまくいかぬ、そこでくやしまぎれに「人生感意気、 功名誰復論」となる。

 張若虚
 夫妻交接事畢 乃捏其淫具曰 此物高致妙々
 春江花月夜 玉戸簾中巻不去

 張若虚は呉中の四士の一人と称された唐の有名詩人、その「春江花月夜」は特に著名な作で、書家の法帖などにも「飲中八仙歌」などと共によく用いられる有名作である。これ又ついでながら「淫具」は男根、一息ついて、又、勃然たる様子を「高致妙々」と評したもの。

 猥褻とは言え、まるで陰気な所がなくカラッとして壮快な感さえあるのは、作者蘭台先生の人柄そのものらしい。跋文を寄せた門人の井上金峨によれば、蘭台は底ぬけに明るい人だったという。 その金峨による蘭台の日常は

 平日善笑 毎僅僕供食 必先笑而後食之
 嘗在稠人広坐中笑而不己(『考槃堂漫録』)

という有様であった。しかも「先生婦人ニ近ヅカズ 終身娶ラズ 居恒ニ僧ノ如シ」(吉田篁●(土編に敦) 『近聞寓筆』) という。卓吾の病的な潔癖症もよくしられた事だが、この辺り何か似通うものも感じられるものの、ともかく蘭台は明確に本書編纂のヒントを卓吾の『四書笑』に得ている事は、本書中に先述の「居上不寛」の条を引いている事からもわかる。

 宝暦三年六月には 『四書笑』 そのものの和刻刊行の企てもあったことが本居仲間の『割印帳』に明記されており、恐らくこれも羅山手沢本を底本にして、蘭台・金峨辺りが考えたのではなかろうか。 結局出板には至らなかったようだが、その二年後には大坂で『開巻一笑』の巻二のみの和刻が実現するので、やはり東西呼応してこの頃、知識人間に一種の卓吾ブームが捲き興っていた形跡がある。その時の卓吾理解は、無論、風流儒者李卓吾といったものであったろう。

 『唐詩笑』の刊行は更なる余波を生む。宝暦七年の江戸版『異素六帖』がそれで、今度は『唐詩選』に「百人一首」を加えて断取し、全章吉原の遊びの種々相にかこつけるというもの。趣向といい手際といい、また一段とこなれたものになっている。作者はこれ又井上蘭台門で、後世超売れっ子書家となった沢田東江なので、『唐詩笑』に触発されての所為であるのは言う迄もない。既に文学史上にも有名な作品の事ゆえ、ここにその内容の一端を紹介するにも及ぶまいが、ともあれ『唐詩笑』と『異素六帖』の二作は、共に宝暦年間の江戸に、所謂いわゆる江戸戯作なるものの正真正銘口火を切った作品である事はまぎれもない事実であり、そのきっかけが李卓吾編と銘うたれた『四書笑』であったという事は、とりも直さず李卓吾を江戸戯作の生みの親と称しても強ち間違いであるとも言われまい。

 卓吾の影響はかくして思いもかけぬ方向へと展開していくのだが、このような受用が可能となる段階では、 卓吾の本来の面目というべき『蔵書』・『焚書』などに見える主張そのものも十分に理解されているものと考えるのが当然で、その辺りの見通しを述べたのが、実は二十年前の拙論の骨子とする所だったのである。

 今、 それを証明し補強する為の資料も何がしかは準備することも出来ているが、 紙幅の都合もありすべては後日を期したい。
 (九州大学教授)


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