科研費出版助成と学術出版

― 大学出版部を中心に ―

橘 宗吾



 はじめに・科研費出版助成削減の現状

 日本学術振興会の管轄する科学研究費の研究成果公開促進費が2007年度と08年度の2年にわたって大幅に削減された。研究成果公開促進費は「学術図書」「学術定期刊行物」「データベース」の3つの種目からなっているが、このうち大学出版部はじめ学術系出版社が主として関わっているのは「学術図書」である(以下では、この種目を指して科研費出版助成と呼ぶことがある)。
 この「学術図書」に対する出版助成の予算(新規採択分)は、07年度に40%削減され、08年度にさらに10%カットされて、09年度はわずかに上昇したものの、05年度や06年度と比べて4割以上少ない状態が続いている。金額にして06年度の7億円弱から08年度の3.7億円に(09年度は3.9億円)、採択件数は340〜350台であったものが220〜230台になり、05年度や06年度と比べて100件以上少ない。採択率も、それまでの40%を超える水準から、07年に一気に24.2%まで落ち込んだ後、09年にはやや回復して34%になっているが、この「回復」は、助成金の削減によって採択される見込みが小さくなったことや、申請手続きの煩雑化などのために、そもそもの申請件数が減ったことによる部分が大きいと考えられる。
 「学術図書」が、研究計画ではなく、長年にわたる研究の最終的な成果であることを考えると、このような助成金削減による低い採択件数・採択率は由々しきことである。この出版助成を申請した学術図書が不採択となった理由について、09年度に大学出版部協会加盟出版部を対象にアンケート調査をしたところ、「評価は高いが予算配分の都合上」不採択とされたもの、「刊行の緊急性が認められない」として不採択とされたものが、それぞれ3分の1もあった。つまり、この2つの理由で3分の2を占めているのである。仮に大学出版部の申請図書の質の高さを考慮するとしても、この2つの理由が圧倒的に多いことは動かないであろう。
 最初の理由は、文字通り、助成を得て刊行されるべき著作(研究)が、予算削減のために刊行されないことを意味し、学界にとっても社会にとっても大きな損失であろう。また、もう1つの「緊急性が認められない」という理由は、人文学や社会科学について言えば、それが社会や歴史のなかで評価・選択されていくことに重要な意味があることを見ないものであるし、より一般的にも、直ちに効用の明らかでない基礎研究をなおざりにするものだと考えられる。
 このように科研費出版助成の削減により、本来、出版されるべき著作(研究)が補助を得られず、刊行が困難となっている状況に対して、大学出版部協会では、昨年6月に文部科学省と日本学術振興会に、この制度の維持と発展をうったえる要望書を提出した。要望書の全文は、大学出版部協会のホームページや『大学出版』76号(2008年秋)に掲げてあるので、ぜひそちらをご参照願いたい。
 ここでは、まず科研費出版助成によって、これまでどのような成果を上げてきたのかについて述べた後、科研費出版助成削減の影響と助成の必要性について考えていきたい。
 なお、科研費出版助成について考える際には、言うまでもなく我が国の学術出版全体について見ていくことが望ましいが、十分なデータを得ることが困難であるため、大学出版部のデータによって代表させざるを得ないことが多い。この点、あらかじめご了解いただきたい。

 科研費出版助成の成果

 (1)学術図書の質の高さ
 第1にあげるべきは、科研費出版助成による学術図書の質の高さである。
 これを、まず恩賜賞・日本学士院賞について見てみよう。周知の通り、恩賜賞・日本学士院賞は現在99回を数えている我が国で最高の学術賞であるが、昨年秋に、そのうち過去の50回(第49〜98回)について人文学・社会科学系の受賞者・研究題目を調査したところ、受賞131件中48件が、科研費出版助成の交付を受けた著書によって受賞していた。さらに今年も、新たに2件(うち1件は恩賜賞も受賞)が科研費出版助成による成果であった。これは、平均するとほぼ毎年1件、人文学・社会科学系の受賞のうち3分の1以上が、この出版助成を得て著書を刊行した結果として、恩賜賞・日本学士院賞を受賞していることを意味する(詳細は大学出版部協会のHPを参照)。
 他の賞についてはどうだろうか。02〜06年度の5年間に大学出版部で科研費出版助成を受けて刊行した書籍300点弱(自然科学系の書籍を含む)について、昨年春に調査したところ、上記の日本学士院賞を含む40件以上の受賞があった。様々な学会賞、サントリー学芸賞など社会的な反響を示すより一般的な賞、さらには国際的な賞まで、いずれも助成によって書籍が刊行されて初めて表彰されることになったものである。
 科研費出版助成による学術図書の質の高さとともに、この助成の効果を端的に実証するものと言えよう。

(2)学界と社会への受容
 先に社会や歴史による評価・選択と述べたが、それでは第2に、科研費出版助成図書はどれくらい学界や社会に受け入れられているのであろうか。
 まず新聞や雑誌の書評や記事で取り上げられた数を見てみよう。02〜06年度に大学出版部では毎年60点弱の書籍を科研費出版助成によって刊行したが、昨年春の調査では、これらは各年平均140件以上の書評や記事で取り上げられていた。これは学会誌・専門誌のみならず新聞や一般雑誌を含む数字であり、書籍が様々なレベルの媒体を通して学界や社会に浸透していくことに対応している。この点は、専門雑誌論文には見られない現象であり、書籍の大きなメリットである。
 では、科研費出版助成図書はいったいどれくらい読まれているのだろうか。残念ながら読者の実数はわからないので、販売数を示しておこう。これも02〜06年度の大学出版部の数字だが、昨年春の調査では、学術図書1点あたり平均1000部弱を発行し、平均600部強を市販していた(これはあくまで平均数であり、書籍によってもっと少ない部数での出版もあれば、他方、多くの読者を得て増刷できたものもある。たんにその多寡によって出版の価値が決まるものではないことは強調しておかねばならない)。これは、学術図書以外の一般書を基準とすれば少部数であり、出版助成の必要性をよく示しているが、それと同時に、一部で誤解されているように助成図書は著者の周辺だけで読まれているものでは決してなく、学界と社会にかなりの程度需要・受容されていることも明示している。
 なお、学術図書が長期にわたって流通していくことを考えれば、1点あたりの販売数はもちろん、記事などで取り上げられる数も、今後引き続き増加していくと見てよい。

(3)幅広い研究(者)をカバー
 しかし、こうした制度は、一部の研究者だけに利用されているのではないだろうか。第3に、この点を検証しておきたい。
 02〜06年度に大学出版部で科研費出版助成によって出版した学術図書について、科研費の申請代表者になった研究者の所属を調べたところ、約60の国公立の大学等の研究機関、約50の私立等の研究機関、その他(名誉教授や非常勤講師、所属なし等)が約20あった。これは、申請代表者だけの所属であり、複数の著者による書籍も多いため、研究者の所属の範囲はさらに広がる。つまり、国公立のみならず私立等の研究機関に所属する研究者から、ポストを得ていない研究者や名誉教授にいたるまで、実に幅広い研究者の研究成果をカバーしているのであり、これだけ多様な研究者(や研究テーマ、本のタイプ)をカバーできる出版助成の制度は他にない。
 また、今年度の大学出版部での限られた調査の範囲ではあるが、申請代表者の年齢層も30歳台・40歳台・50歳台・それ以上、の間で大きな偏りは見られなかった。
 さらに、ここで数字を示すことはできないが、名誉教授の著作にその一端が現れているように、これら科研費出版助成による学術図書は、10年以上にわたる研究の成果を多数含んでいる。こうした長期の研究、そしてしばしば大部となる著作に対応してきたのも、この制度の重要な働きであった。

 科研費出版助成削減の影響

 このように科研費出版助成は大きな成果を上げてきたのであり、その削減が様々な影響を及ぼしていくことは明らかだが、上述の大学出版部協会が提出した要望書では、それを大きく(1)研究発表機会の狭隘化、(2)研究支援基盤の喪失化、(3)研究計画立案の不能化、の3つにまとめている。以下、それに即して若干言葉を補いながら見ていこう。

 (1)この助成によって書籍として公刊されて初めて学界や社会で評価されることになった研究は多く、この制度の削減は、研究発表の道を狭められた研究者はもちろん、学界と社会に大きなマイナスの影響を及ぼすことになる。
 とりわけ人文学・社会科学にあっては、国際的に見ても、体系的な書籍の形に研究をまとめあげて初めてその研究が正当な学術的評価を受けるわけであり、また、社会や歴史の評価・選択を受けるために書籍という形で研究成果を発信することの重要性は、今年1月に発表された文部科学省科学技術・学術審議会の「人文学及び社会科学の振興について」の最終報告でも強調されているところである。
 人文学・社会科学に限定せずとも、学知の体系的な集積である学術図書は、(特に自然科学系の)研究成果の簡潔な速報を旨とする雑誌論文などとは性格を異にし、多くは執筆の過程自体が研究の体系化の過程でもあり、他方、より長期的な受容の過程をもつ(場合によっては改訂をへながら)。そして学術図書の読者は、その主題に関する専門研究者を中心としながらも、学術図書が通常の書籍と同様に流通することによって、いっそう幅広いものとなるのである。

 (2)この研究の体系化過程=書籍の執筆過程と研究成果の受容過程=書籍の普及過程に大きな役割を果たすのが、学術出版社である。学術出版における編集活動は、完成した研究成果をたんに印刷・刊行するにとどまらず、その手前の研究段階から関与することが多く、書物の方向性や構成、草稿の検討など、研究者=著者の様々な相談にのり、研究を支援するものである。なかでも、しばしば長期にわたる大部の体系的な学術図書の執筆は、それ自体研究の重要な部分であり研究の仕上げでもあるため、それに対するサポートの役割は大きいと考えられる。また学術図書であっても、いやそうであればなおのこと、1人でも多くの読者に開かれた表現をとる必要があり、そのためにも編集活動は不可欠なのである。ところが、このようにして完成した研究成果=著作が出版助成を得られず公刊の見通しが立たなくなれば、編集活動を通した研究のサポートは不可能になる。それは、研究を支える重要な基盤の1つが崩壊することにつながり、日本の学術と文化に多大な損失をもたらすことになる。
 しかも学術出版の役割は、こうした編集活動に限定されるものではなく、長期にわたる研究成果の普及・流通も重要な機能の一つである。しかし、これはそもそも優れた著作が刊行されなければ始まらず、たとえ刊行されたとしても助成を得られず不十分な形(内容を削減するなど)や高価格の書籍となれば、学術的な評価という点からも社会への受容という点からも、大きな障害をもつことになる。

 (3)さらに科研費出版助成は、あらゆる研究者に開かれている点や、大部・大型の出版計画にも対応しうる点、また長期にわたる(単年度や数年度ではなく)研究の成果を十全な形で公刊できるなどの点で優れた制度であり、テーマや規模や著者の資格要件など制約の多い他の助成(民間財団や一部の研究機関の)では置き換えられない。むしろ、科研費出版助成という基礎的な制度が十分に機能していてこそ、こうした他の助成も相補的な関係に立つことができるのである。したがって、科研費出版助成の削減によって、大半の研究機関に属する研究者やまだ一定のポストについていない若手研究者の研究成果の体系的な発表、また、恵まれた条件にある研究機関の研究者であっても大部・大型の研究成果の発表などが、厳しい制約を受けることは明白であり、事実そうなっている。このことは((2)で述べたこととも重なるが)研究計画の立案にまで影響を及ぼし、研究者が思い切った構想を打ち出すことを困難にするであろう。そのことの持つマイナスの意味は計り知れない。

 科研費出版助成の必要性

 以上、科研費出版助成削減の影響を3つに絞って見てきたが、削減の負の効果はきわめて大きく、あらためてこの助成の拡充(復活)を強くうったえずにはいられない。
 最後に、科研費出版助成に関連してしばしば議論になる、書籍の形態と日本語による記述について、若干の言葉を費やしておこう。

(1)書籍の形態
 学術の情報化・デジタル化が進む今日にあっても、紙媒体の冊子体による書籍には需要があり、学界においても社会においても重要な役割を担っている。このことは客観的な事実である。よく見られる、インターネットを中心とする多様な電子メディアの出現や、書籍1点当たりの販売数の減少といった現象を直ちに、紙媒体・冊子体の書籍の消滅に結びつける類いの議論は、しばしばあまりにも短絡的である。未来や人間の行為は常に予測しがたく、社会工学的なヴィジョンがそのまま実現した例はない。たしかに今後、紙媒体と電子媒体の併用がさらに進んでいくことは間違いないと思われるが、両者の役割の再編がどのようになるかは不確定であり、しかもそうした再編は、社会の変化とともにしか進まない、時間のかかるプロセスである。確実に言えることは、再編の過程にあっても、紙媒体・冊子体の書籍の役割と需要は存在するし、他方、書籍がどのような形態をとろうとも、編集の過程や普及の過程に(こそ)は技量と手間暇を要するということであって、それゆえ学術図書には助成が必要だということである。

(2)日本語による記述
 現在、英語での発表、英文出版が奨励されており、実際、自然科学系では英文ジャーナルへの掲載を前提に論文が書かれることが多い。したがって、ここであえて英文による記述について言挙げするよりも、むしろ、日本語による学術書を不要とする意見に対してはっきりと異を唱えておきたい。
 さて、あらゆる学知は、学術誌の査読システムの中で閉じてしまうのではなく、広く社会へと開かれるべきものである。そしてその社会の範囲や、それへの接続の仕方をどう考えるかによって、書かれるべき言語は変わってくる。したがって、研究領域やテーマ、対象などに応じて、書かれるべき言語は異なる。いや、書かれるべき言語の組み合わせや比率あるいは状況が異なると言った方が正確であろう。英語での発表が奨励される場合が多々あるとしても、すべての研究者が常にそうする必要はなく、柔軟な役割分担があってしかるべきである。また、多くの優れた学知は何らかの形で日本語で(も)書かれることが望ましい。
 具体例をあげるなら、いずれも助成図書である『日本の活断層』や『清帝国とチベット問題』のように、後の政策形成などの基礎となる認識・情報をもたらした書籍が日本語で書かれることのメリットは明らかであるし、『フラーレンの化学と物理』のように、新しい研究領域を体系化して提示する著作が日本語で書かれれば、日本においてその研究領域を活性化することも間違いない。
 一般に自己と他者の歴史と環境(自然的・社会的)について、自国語によって学知を記述し、また読みうることの文化的・社会的意義は測りがたいほど大きく、それは、何度も述べているように学術が社会や歴史の評価・選択を受けていく必要があるからでもあれば、学術の発展のための最大のスポンサーである国民に学知を開いておく必要があるからでもある。
 詳述する暇はないが、国際的に見ても、特に同じ漢字文化圏のアジア諸国に翻訳される場合など、日本語による記述のメリットは小さくなく、おそらくこのことは社会というものを多重・多元的に捉えていく必要を示唆している。
 いずれにせよ、我が国の学術においては、安易に英語のみに、あるいは日本語のみに記述を限定してしまうのではなく、言語的な二重性、いや多重性を生きることが必要なのであり、そのことが生み出す(断絶をともなう)循環的発展こそが、学問と社会の未来をきりひらくのである。
(名古屋大学出版会)



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