知のコミュニケーションの核としての共同

― 学術情報リポジトリと大学出版会(京都大学の試み)―

鈴木 哲也



 ギルマンの卓見は、引き継がれているか?

 われわれ大学出版人がバイブルとして読むべき一冊、G・R・ホウズの『大学出版部――科学の発展のために(1)』は、ジョンズ・ホプキンス大学出版部の設立に関わる、印象的なエピソードから始まっている。
 ジョンズ・ホプキンスといえば、今や医学生理学、国際関係分野では他の追随を許さない研究機関であり、連邦政府研究費の獲得額では全米1と言われる世界の最高学府である。けれども当然のことながら、1876年の創立時にあっては、新大陸の、西欧学問世界から見れば辺境の一新設大学にすぎなかった。そして、その初代学長D・C・ギルマンは、「しっかりした大学には第三の勢力がある」ことに気づいたのだという。すなわち、教育を担う勢力(教授陣)と研究を担う勢力(教授陣と図書館)、そして発表を担う勢力(教授陣と図書館と大学出版部)である。19世紀の時点で、ヨーロッパの大学出版部はすでに400年の歴史を持っていて、その代表であるオックスフォードやケンブリッジの大学出版部は、まさしく、知のコミュニケーションの核であった。ギルマンは大学出版部設立に尽力し、その結果誕生したジョンズ・ホプキンス大学出版部は、米国最古の大学出版部の1つである。
 その後のジョンズ・ホプキンス大の姿を見れば、ギルマンが卓見の持ち主であったことには誰も異論がなかろう。以来150年、ずいぶんと様変わりしたとはいえ、研究者(による成果)→学術出版(を通した公開)→図書館(による集積と系統化された開示)→研究者による受容と新しい創造、という「知のコミュニケーション」の基本的骨格は、依然として揺るいでいない……にもかかわらず、われわれの現場では、はたしてその三者の共同が有効になされているのだろうか? 少々出だしが長くなったが、この自問が、拙稿を書くに至った、そもそもの契機である。

 機関リポジトリと既存の学術出版パラダイム

 機関リポジトリそれ自体の意義と問題点を本格的に検討するのは拙稿の目的ではないが、差し当たっての議論のために機関リポジトリとは何か、R・クロウに従って最低限定義しておこう。すなわち機関リポジトリとは、研究機関が、その構成員によって創造された学術的生産物をデジタル・アーカイブし、機関内外のエンド・ユーザーが障壁なくアクセスできるようにしたシステムである(2)
 京都大学のデジタル・アーカイブに関連して、図書館と大学出版部(京都大学学術出版会、以下当会)の最初の懇談が行われたのは、1997年のことである。その場では、機関リポジトリという語は使われなかったと記憶するが、印象的だったのは、「なべて出版社はオープン・アクセスに非協力的で、非常に残念だ」という言葉で、具体例として、大学出版部も含めたいくつかの大手学術版元の名が挙がっていた。
 確かに、学術成果をインターネット上で無償公開し、自由に利用できるようにするというオープン・アクセスの思潮は、現在の学術出版モデルを破壊する――という警戒心は、われわれ出版人の間に根強い。いや、そもそもそうした思潮の背景には、(主として欧米の版元が支配する)学術雑誌の高騰への不満、すなわち「学術出版が、知的成果物を独占的に支配している」という強い批判がある(3)のだから、その対立は当然とも言える。しかし、ギルマンの立った、いわば原点の地平から見たとき、この対立は本源的な解決不能なものなのだろうか?
 学術雑誌の価格が急騰しているのは事実である。また研究者の側から見れば、雑誌のみならず単行本にあっても、価格すなわち商業的価値を維持するという名目で、学術的な価値や信頼性が過剰に審査され、論文を出版システムに乗せるのが容易でない、という不満は強い。しかし、視点を変えて見れば、大学院重点化やそれに伴う研究機関の競争状況、その背景にある国際的な科学技術競争の結果、そもそも学術研究の量自体が著しく増加し、その量が、既存の学術出版モデルの容量をすでに遙かに超えているのは明らかなのだ。「独占的支配」というよりは、印刷技術と書籍市場システムに強く制約された学術出版は、今日の学術コミュニケーション(知のコミュニケーション)のごく一部しか担えない、というのが事実なのである。むしろ問題とすべきは、その「担い方」だろう。
 箕輪成男氏が指摘するように、学術出版は、元来、知のコミュニケーションにおける権威、すなわち「人を納得させるだけの信頼性」を確保する装置として誕生し機能してきた(4)。ノートの隅に書き付けられた研究メモから、論文草稿、雑誌掲載論文から単行本まで、学術情報は様々にあるが、学術書とは、公平で客観的な査読・評価を受け、雑誌論文にはない領域的な広がりを持ち、そして研究・教育市場において経済的に成立する程度に広く受容される学術情報の結晶である。学術雑誌でいえば、右の条件に加え、領域的な広がりは多少犠牲にしつつも、より緻密な方法とデータによって信頼性を高めたもの、あるいは速報性を高めたもの、と言えようか。もちろん、ここで言うのは理想的な姿だが、要するに「出版物」とは数多の条件・関門を経たものということであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 逆に言えば、そうした条件を付されない多くの学術情報が存在し、しかもそれぞれに価値あるものなのだ。物事を歪めているのは、本来、数多の学術情報の一部しか担っていない(あるいは担うべきでない)学術出版が、不当に大きく振る舞っている(あるいは振る舞えるようになっている)からなのである。なぜそうなってしまうのか、少々の乱暴はお許し頂いて、要因を羅列してみよう。
 まず指摘せねばならないのは、学問の競争状況、とりわけ研究機関の競争状況の中で、「publish or perish」の風潮が過剰に席巻していることだ。この句を「論文か死か」と訳せば研究者個人レベルの話だが、研究機関レベルの話となると「出版か死か」と訳せる。COEに採択されたが、その成果をとにかく出版しなければ評価が下がる、という悲痛な依頼は、われわれのもとに毎日のように寄せられる。しかし、その全てに応えていたら、決して誇張でなく、この国は「学術書」という名の紙ゴミの山になるだろう。何度も言うように、学術成果は数多ある。とりあえず紀要に掲載すれば良いものか、少し加工してWebサイトに上げてみようか、頑張って雑誌に投稿してみようか、はたまた本として編んでみるか、といった検討を一つ一つ行うことなしに、安直に「出版」を求める風潮を研究現場の側から改めることが必要ではなかろうか。
 もちろん、こうした避けがたい競争状況を無批判に利用しようとする「学術出版」の側の問題もある。世界中の大学図書館を苦しめている学術雑誌の高騰も、その一側面として見ることができる。どんな状況になろうとも、「発表と受容のサイクル」は無くならない。ならばいくら高くても買うだろうという、弱みにつけ込んだ発想は、出版ビジネスの中に根深くある。もちろん、信頼性を高めるための査読・編集・製造のシステムにはコストがかかる。それにしても、7年間で8倍とか10倍などという価格上昇が許されて良いものだろうか(5)
 こうした事例は極端なものだとしても、わたし自身猛省すべきことだが、出版の現場では、市場性・経済性に過度に拘束されて物事を評価してしまう、というのは日常的な出来事だ。否、拘束されてというより、工夫がないと言うべきか。どのようにアレンジすれば出版が可能なのか、頭をひねること無しに、多くの原稿が棄てられている。そしてこれが、三つ目の問題だ。すなわち、出版社(者)自体が、数多の学術情報の中で、雑誌や本がどのような機能を果たすべきか、こだわること無しに、増大する学術情報に呆然とただ手をこまねいて情報を垂れ流すのみになってはいないか、ということである。インターネットを軸に新しい発表メディアが次々に登場し、メディア間の競争に晒されているにもかかわらず、既存の学術出版システムは、自己点検なしに、その既得した世界に安住している。
 もう一つ、紙幅の関係でほんの僅かしか触れないけれど、この30年余りの「教育改革」、なかでも「ゆとり教育」とその反動としての初等中等教育の競争化、そして大学院重点化がもたらした、大学(および大学院)教育現場の変化は、いっそう工夫された学術書を求めている。しかし、それにわれわれがきちんと応えられているかと言えば、正直お寒い限りだ。
 十分な査読と編集なしに、研究者・機関から寄せられる原稿を、右から左へと「本」として「雑誌」として刊行していれば、当然の如く学術出版の信頼性は損なわれ、価値を失い、その分、研究者・図書館の「不当感」は強まる。実は、こうした負のスパイラルが、問題を厄介にしているのではなかろうか?

 新しい知のコミュニケーションの可能性と課題

 いやましに増大する学術情報、新しいメディアの登場、研究・教育状況の変化、そしてそれに対応できずにいる学術出版……。いや学術出版だけでなく、対応できずにいるのは、既存の知のコミュニケーションシステム全体と言って良いだろう。「機関リポジトリ」は、その問題を解決しようとする、一つの提案である。膨大な情報をとにかく集積し、最低限に整理して、まずはいったん公開する。誰かの研究ノートの一片に啓治を受けることだってあろうから、これは大事なことである。
 しかし弱点もある。ピュア・レビューを経ていないものに、どれだけの信頼性があるか? 研究の細分化が進んだ今日、プロの研究者ですら、自分の専門と少し離れた仕事は評価できなくなっている。まして、何の学問的トレーニングを経ていない人々がオープン・アクセス化された情報を安心して受容できるのか? 医学や健康、美容などの分野では、この問題がとりわけ深刻なものとして指摘されている。そうでなくとも、インパクトのない学術情報の集積にどんな意味があるのかという批判は、機関リポジトリを推進しようとする側にもある。
 そこで期待されるのが、信頼性のある、インパクトのある情報を送り出す機能としての出版だ。赤澤久弥氏は、図書館人の立場から、「「編集」により価値を付与されたコンテンツを「情報の収集・提供」の装置である機関リポジトリで、社会に発信する」モデルを、大学出版部との共同で実現できないかと提案する(6)。全く同意するものだが、わたしがここで問いたいのは、こうした営みは、学術出版の価値を高めこそすれ、その商業的側面を破壊しはしない、いやむしろ、新しい知のコミュニケーションモデルの中でチャンスを広げることになるのではなかろうか、ということだ。
 もちろん、出版の側から言えば、解決すべき問題はまだ残る。一つは、著作権処理の問題で、たとえ一度本として刊行されたものであっても、それを電子的にオープンアクセス(著作権上の言葉で言えば、公衆送信)する場合、コンテンツ全てが自動的に公開できるわけではない。例えば引用した図版。多くの場合、引用や掲載(転載)は、その本一度きりの引用に対して許可される。したがって、公衆送信する場合は別途許可を得る必要があるが、記録写真や芸術作品等の場合、費用その他の問題も含め、困難であることも少なくない。そうした場合、当該部分をマスクするなどの工夫は必要だろう。
 それ以上に気になるのが、電子公開に際しての費用分担だ。一度紙に印刷されたコンテンツを、例えばPDF形式等にして公開する場合、その費用を誰が負担するのか。特に、容易に電子メディアに置き換えられない古い出版物の場合、画像スキャニングやOCRによる文字情報の読み込みなど、かなりの手間がかかる。もちろん、DTPによって組版された最新のものであっても、電子メディア化するにはそれなりの費用がかかる。それを誰が負担すべきか。原則としては、サービスを提供する側(すなわち機関リポジトリの運営者)の責任だと理解したいが、そうスムーズには合意できないだろう。
 細かく言えば他にも指摘できようが、なにより気になるのが、先にも述べたように、出版物の内容をオープン・アクセスとした場合、商売に差し障りないか、という点だ。これに関わってしばしば紹介されるのが、米国のナショナル・アカデミー・プレスの取り組みで、単行本のデジタル版を無料アクセスで提供することで、印刷版の売上を増大させたという。しかし、同社の例も含め、学術出版が何のアイデアもなく、既存モデルを維持したままで、機関リポジトリと共存し発展できるわけではないのは確かだろう。

 なにより共同への一歩を

 それにしても、「学術出版は生き残れるか」という問題をいくら頭の中で考えてみても、答えは出まい。「図書館が出来るとその町の書店は潰れるか」という問いが昔からあるが、おそらく潰れた例は少ないのではないか。むしろ、「読む文化」の育成が本の流通を増進する可能性の方が大きいのではないか、と考えるがいかがだろう? 要するに、知のコミュニケーションの担い手が、それぞれの特性を活かして共同することで、総体としてコミュニケーションを活性化することが必要なのではないか。
 現状では、機関リポジトリに組織的に協力している学術出版社(者)はほとんどないと思われる。本稿を準備する過程で、大学出版部協会に加盟する31出版部に対してアンケートを行ったが、機関リポジトリに関わって何らかの形で共同している、あるいは今後共同するべく検討している、と回答したのはわずか4校のみであった。理由はあえて問わなかったのでその背景は様々であろうが、「機関の側から何の働きかけもない」と応えたものも少なくなかったので、出版部の側だけに問題があるわけでもなさそうだ。ギルマンの理念は活かされていない。
 実は京都大学では、2003年頃から、当会と図書館のスタッフによる、懇談・学習の機会を持ってきた。前出の赤澤久弥氏は、そのメンバーのお一人だが、いずれの機会も、「生業」としての出版を「知のコミュニケーション」という高みから位置づけ見直すことができる、大変有意義な機会だった。そうした流れの中で、2007年8月に、図書館の担当セクションから当会に、機関リポジトリへの協力要請がなされ、2007年12月に両者間の覚書を締結、正式に共同するに至った。
 合意事項をかい摘んで言えば、
1 電子メディア化に必要な最低限の費用を図書館が負担した上で、
2 当会が、著者・著作権者の合意が得られた学術書をPDF形式でコンテンツ化して提供する。
3 その際、当会は、著作権保護に関わる様々な処理(図版などへのマスキング、印刷時の透かしなど)を加えることができる。
というものである。これに対応するかたちで、当会内部でも、アーカイビングのための基準、特にembargo(刊行後どの程度の期間を経過すればリポジトリに掲載して良いか)に関わる基準を設けている。
 一部の著者からは、さっそく、リポジトリに自著を掲載したい旨要望が寄せられているが、むしろ、出版の機能を活かしてインパクトの高いリポジトリを構築するにはどのようなコンテンツが必要か、出版会・図書館の側が主体的に考える必要があろう。
 差し当たってこの点では、京都大学が授与した学位に関わる単著、COEや特定領域研究など京都大学が中心となった大型研究の成果、あるいは、研究科や附置研究所等がそれぞれの部局における研究を俯瞰し紹介したような図書等は、掲載コンテンツとして適合的だろう。一方、事典の類(関係する著作権者が多く、事実上、リポジトリにはコンテンツの一部を細切れにしか掲載できない)、史料翻刻を含む研究書や美術史等の研究書(一次史料所有者による許可が得られにくい)、教科書(学生による無許可コピーを許しがち)などは、オープン・アクセスのコンテンツとしては、相応しくないと考えている。
 もっとも、本稿執筆の時点(2008年2月初旬)では、わずかに5点のコンテンツが公開されているに過ぎず、その効果は(正も負も)明らかでない。しかし、この取り組みに関して学内外で紹介された結果、コンテンツへのアクセスは予想以上に高い。また、地域研究の分野では、高い業績を挙げた研究者たちが自らのフィールドノート(つまり研究の大本のリソース)をデジタル化してリポジトリに掲載し、その結晶としての学術書を併せて公開することで、若い世代に対して研究の全体像を示していこうという興味深い試みも企画されている。要するに、当会と図書館の取り組みが、我が国初の試みとして十分に話題を呼んでいる、と自ら信じることはできる。
 出版を出版人の生業として、図書館を図書館人の生業として見ているだけでは、既存のシステムが隘路に陥るのは確実である。知のコミュニケーションの核としての位置を自覚して共同することこそ、既存システムの危機を乗り越え、知のコミュニケーションを再構築できる道である。行動力と可能性に満ちた集団として、大学出版部の果たす役割は一層大きくなっている。
(京都大学学術出版会)

文献注
(1)G・R・ホウズ(箕輪成男訳)『大学出版部――科学の発展のために』東京大学出版会、1969年。(原タイトル“To Advance Knowledge: A Handbook on American University Press Publishing", American University Press Services, 1967)[→本文へ戻る]
(2)レイム・クロウ(栗山正光訳)「機関リポジトリ擁護論――SPARC声明書」(原タイトル“The Case for Institutional Repositories: A SPARC Position Paper", 2002)http://www.tokiwa.ac.jp/~mtkuri/translations/case_for_ir_jptr.html[→本文へ戻る]
(3)レイム・クロウ、同前。[→本文へ戻る]
(4)箕輪成男「威信のための装置」『大学出版』No.50、10−13頁、2001年。[→本文へ戻る]
(5)Sonya White & Claire Creaser, Trends in Scholarly Journal Prices 2000-2006, Loughborough University, 2007(http://www.lboro.ac.uk/departments/dils/lisu/downloads/op37.pdf[→本文へ戻る]
(6)赤澤久弥「大学出版部と大学図書館」『大学出版』No.64、6-8頁、2005年。[→本文へ戻る]



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