ショートエッセイ

教科書の思い出




人生を変えた運命の教科書

秋山 仁 (東海大学教育開発研究所教授)

 将来の可能性は何ひとつ無かった。指導教授には見放され、専攻していた偏微分方程式は難攻不蕩に思えた。いくら勉強しても先が見えない。真に「登れども登れどもまだ麓かな」の心境だった。そんな折、高校の頃に授業で興味を抱いた世紀の難問「地図色分けの問題」を思い出し、数学を諦あきらめる前に挑戦してみようと思った。図書館に毎日通い、この問題に関する本を物色し、遂にミシガン大学のフランク・ハラリー教授が著したGraph Theoryに出会った。
 この本は偏微分の本とは異なり、ほとんどすべての結果が過去20年の間に発見された斬新な定理だった。そのうえ、頑張れば自分にも解決できるかも知れないと思える未解決問題もたくさん紹介されていた。カバーがボロボロになるまで何度も何度も読んだ。何ページの何行目にどんな定理が載っているのかも諳んじられるほどだった(1969年に出版されたこの本はその後、日本語を含め数十ヶ国で翻訳され、グラフ理論のバイブルとまで云われる名教科書となった。)
 やがて、「このまま日本にいても何も変わらない。グラフ理論の本場、米国に留学して、自分の可能性をトコトン突きつめてみたい。それでも駄目なら数学をやめよう」と思うようになった。当時、グラフ理論のメッカはハラリー教授が率いるミシガン大学だった。彼の教科書の一読者に過ぎない私だったが、厚かましくも、ハラリー教授に手紙を書き、「先生の下でグラフ理論を本格的に研究したい。是非採用して欲しい」と、思いのたけを込めた文章を下手な英語で綴った。数ヵ月しても返事はこなかった。半ば諦め、有名な大先生に、あのような失礼な手紙を書いたことを恥じ入りもした。ある日、いつもの飲み屋でアブサンをあおり、安アパートに戻ると、オンボロの郵便受けの中に、赤と青の縞の封筒が顔を覗かせていた。差出人はハラリー教授だった。急いで封を切ると、「お前の熱意は気に入った。受け入れるからすぐにミシガンに来い」と書かれていた。
 この本は、私の数学者としての人生を切り拓いてくれた運命の教科書である。




瞼の教科書

大庭 健 (専修大学文学部教授)

 不遜な言い方になるが、テーマが限定された授業においては自分の著書を教科書に使うことはあるけれども、一般的な講義でいわゆる教科書を使ったことはほとんどない。これには多分、遠く遡れば自分が学生時代に指定された教科書のほとんどが詰まらないものであったという記憶も与っていよう。
 それでも大学で哲学・倫理学を講ずるようになった当初は、その頃「定評」のあった教科書を使ったこともあるが、そこに書かれていることを説明するよりも、書かれていることに反駁を加えたり、書かれていないことのほうを一生懸命に語るはめになることが多く、教科書を探し・選ぶ労を厭うようになるまでに、さしたる年月はかからなかった。その結果、講義の準備はけっこう厳しくなったし、何よりも大量に板書しなければならなくなったが、自分なりのノリで話せる、ということを常に優先するようになった。
 これは、多分に私の個人的な事情が与っているが、哲学・倫理学という学問の性格にもよると思う。しかし、それでも、いい教科書があったほうがいいと思うこともある。とりわけ、講義の進行に応じて、少々違う文脈においてではあれ、同じことを繰り返し説明しなければならないときや、関連する科目で詳しく扱われることを説明しなければならないときには、そう感じる。
 体裁は一見したところ中項目の小事典だが、いろいろなルートで項目を読み連ねていくと、多様な科目のミニマムの教科書としても使えるし、文献案内やwebサイトの紹介も丁寧で、レポート作成の手引きとしても結構使える。そんな手軽でお洒落なスタイルな本があれば、それなりに各所で重宝がられはしないか…。じつは本学の出版企画委員会ではこんなことも話し合い続けていて、ただ実際に作るとなると、多様な学生の目線にたって、かつ教科書として使う人間の多様性を考慮して、基本的コンセプトから始まって、盛り込むべき内容、記述のレベル、文体などなどについて試行を重ねねばならなくなる。なかなか厄介なものです。




現代にふさわしい「教科書」の使命とは

尾崎彰宏 (東北大学大学院文学研究科教授)

 西洋美術史を専攻した私が、概説の教科書として手にしたもののうちで、今も手元においているものとしてH・ジャンソン『美術の歴史』(美術出版社)がある。原書が改訂されたのを機に改訳され、私が学生時代に利用したものよりも読みやすくなり、二分冊になっている。現在でも西洋美術の通史としてはスタンダードである。西洋美術の流れを知る上で欠くべからざる作品が網羅的に集められていることはもちろん、なんといっても図版が豊富なことがうれしい。頁を繰っているだけでも各時代、地域で産み出された芸術作品のイメージや作家像が鮮明に形づくられていく。
 しかし学生時代に出会った教科書は、教師の授業を補完するものであったり、通説を敷衍したり、講義とは別にその学問領域を自力で概観するためのものであるものことが多かった。もちろん授業の内容を理解するのに便利であった面は否めない。しかし、どうしてもオムニバス的な性格がつきまとい、複数で執筆している場合など、記述にばらつきが目立つという印象をもっていた。私の場合、当該科目の履修が終われば、教科書も用済みとなり、二度と手に取らなかったものも少なくない。それだけに、大学の授業における「教科書」はどうあったらいいのだろうかという問いを、学生時代から折に触れて反芻しつづけてきた。
 そんな思いを抱いていたせいか、教師になって一度だけ教科書づくりに積極的にかかわったことがある。『西洋美術への招待』(東北大学出版会)である。そのささやかな経験から、教科書は、授業を支える脇役でありながらも、それに終始するものではなく、自律した価値をもつものでありたいと思う。明確なコンセプトを打ち出し、そのイノベーションによって読者の共感を誘うような工夫が必要だ。それには、今なぜ、その教科書が編纂されるのか、を問う理念の切実さがなくてはならない。現代の教科書の使命は、既成の知識の反復ではなく、現代という転換期を描きだす、知の本質を問うものであるべきではないか。




思い出の教科書

海保博之 (筑波大学人間総合科学研究科(心理学専攻)教授)

 大学生だったのは44年前。その時使った教科書を思い出してみた。思い出せたのは、高木貞治編『心理学』(1956年、東大出版会)と岩原信九郎著『教育と心理のための推計学』(1957年、日本文化科学社)の2冊だけであった。
 なぜこの2冊の教科書が思い出せたのかというと、1つには、要するによく使いこんだからである。授業の際はもとより、大学院入試の受験勉強のとき、教員になってからも、授業の下調べや原稿書きなどで折に触れて参照してきた。まさに座右の書であった。思い出せたもう1つの理由は、やはり、その教科書を使った先生(いずれも故人)の思い出があるからである。
 高木・心理学を教科書に使ったのは、小笠原慈英先生。教科書そのものにまつわる思い出はないが、授業の随所で自作のデモ教材を使って授業の工夫をされていたのを思い出す。(なお、東大出版会ニュース(NO.75)によると、高木・心理学の改訂三版は小笠原先生が編者だったらしい。)
 一方、岩原先生は、東京教育大学においでになってまもなくの頃で、当然、自著を使われてのアメリカン・スタイルの熱烈講義であった。宿題、クイズ、黒板での問題解きなどをまじえての授業、さらに厳格な試験は、当時の大学の授業では新鮮であった。大学ではみずから勉強した授業もいくつかあるが、岩原・統計学の授業は、唯一、勉強を「させられた」授業だった。余談だが、家内は、大学の成績で唯一「C」をつけられたのが岩原先生の統計学だけだったといって、今でも悔しがっている。
 両方の教科書ともさすがに最近は手にとったことはなかった。あらためて研究室の書棚から引き出してみると、古色蒼然としている。中を開くと、下線があちこちに引かれてあり、書き込みもある。使い込んだことがよくわかる。
(注)高木・心理学は鹿取・杉本編の改訂版として、また、岩原・推計学はほぼ初版のままの形で、共に今でも脈々と使われ続けている。




思い出の教科書

斎藤清明 (人間文化研究機構総合地球環境学研究所)

 朝一番の講義なので、よく遅刻した。欠席もたびたびだった。受講生は私を含めて7、8人だが、まじめに出るのはせいぜい数人。冬には先生が石炭ストーブを焚いて待っていたこともあった。
 京都大学農学部農林生物学科、今村駿一郎教授の「植物器官学」の講義。同学科の実験遺伝学か応用植物学の講座にすすむ学生には必修科目だった。私が受けた1966年度後期は、定年直前の今村先生にとって最後の講義にあたったが、私たちがそれに気づいたのは、もう年度末になってからのこと。いわんや、先生はカワゴケソウの発見者だと知ったのも辞められた後のことである。
 今村先生が教科書にと示されたのが、郡場寛著『植物の形態』(岩波書店)。郡場寛(1882-1957)は京都帝大理学部植物学科の初代教授で今村先生の師にあたる。郡場は退官後、シンガポールの博物館長を務め、戦後引き揚げて著したのが本書で、最初の著作。1951年刊で定価600円と高かった。
 267頁すべてを仲間たちと青焼きにして複写し、簡易製本したところまではよかった。ところが、ほとんど読むことはなかった。植物の形を幅広く取り上げた形態学の名著とされるのだが、生意気盛りの学生にとって、古くさい内容だと敬遠したのである。当時は、これからはDNAの生物学だという風潮なのだから。
 そのころ刊行が始まったばかりの「現代の生物学」(岩波書店)の第一冊『細胞の構造と機能』などと比べると、古色蒼然としているように思えた。そして、次々に出てくる新しい生物学関係の刊行物の中に埋もれさせてしまった。
 しかし、郡場の名は記憶に残っていた。卒業後、ジャーナリズムの世界に入ったが、日本占領下のシンガポールでの日英の科学者たちの交流の主役は郡場だと、相手の英国人科学者から取材することになる。「生きていた化石」メタセコイアの物語を著した際にも郡場に登場してもらった。そうして、植物のさまざまの姿に出会うたびに、あらためて書架から取り出したのである。




教科書は必要だろうか

杉本良夫 (豪州ラトローブ大学人文社会学部教授・社会学)

 小学校の頃、きちんとした教科書で勉強したという記憶がない。私は戦後教育の文字通り第一世代で、1946年4月に京都市立御室小学校に入学した。まだ国民学校の余韻が残っていた頃のことだ。軍国主義的な表現を墨で消した教科書を読まされた思い出だけが残っている。わらじを履いて登校した時代だ。
 その後転校した京都市立衣笠小学校で、5年と6年の担任は浅野寅夫先生だった。教科書に頼らない授業だったことだけを覚えている。毎日の宿題は「問題日記」を書くことだけだ。日常生活で疑問に思ったこと、不思議だと考えたことなどを記録して、それを毎朝提出するという日課だった。
 浅野先生は生徒の「問題」のいくつかを選んで、毎日の授業を構成した。例えば「雨はなぜ降るのだろう」という理科の疑問から一日が始まる。私たちは雨量の計算を材料にして算数を学び、各地の降水量を比較して地理の勉強をしたものだ。雨を構成部分とする漢字や熟語探しをするうちに、一日が終わった。分からない問題に直面すると、自由に図書室へ行ったり、実験をしたりしたことを思い出す。
 教科書を1ページずつ学んでいくというのとは全く違う。日常生活で見つけた小さな問題を、一歩一歩解いていく楽しみがあった。その過程で、国語、算数、社会、理科などに区分けされない勉強の仕方を習ったように思う。
 大学を出て社会人生活を送ったあと、私は日本を離れ、アメリカに6年、オーストラリアで31年を過ごすこととなった。英語圏のほとんどの国では、日本の文部科学省に該当する役所がない。初等・中等教育は国レベルではなく、地方レベル、州政府の担当だ。使われる教科書も地方によって違う。課目によっては、学校ごとに教員自身が適当と思われる本を選ぶ。全国共通の教科書はまれだ。私たちの子供たちも、教科書があってないような小学生時代を過ごした。
 教科書のない学校というのが、私にとっては小学校の思い出の原版である。その記憶が、日本を離れてからの私の思考様式を支えている。




電車の中の講師

藤原仁志
(宇宙航空研究開発機構 総合技術研究本部 航空環境技術開発センター主任研究員)

 航空エンジン関係の仕事にたずさわっている私は、直接の関連はそれほどないものの、空気の流れなら、エンジンの中も地球の周りも原理は同じだろうとの考えから、気象学に興味をもっていました。
 学生時代だけではなく、社会に出てからも、勉強しなければならないことはたくさんあります。しかし、日々の業務をこなしながら長期間講義を受けることは難しいのが現実です。そこで、通勤途中やちょっとした待ち時間に勉強をするということがよくあります。そして、その時に欠かせない「講師」が「教科書」であり、私の場合には、小倉義光著『一般気象学』(東京大学出版会)だったのです。学生時代にも単位取得のために数多くの教科書を読みましたが、印象に残っているものは、結局、卒業後に読んだものであるというのは少し皮肉なことです。
 本書は、はしがきにもありますが、「すべてのことをもれなく記述するというよりは、記述された項目はできるだけ理解しやすいように、つまり基本的な法則から出発して説明をていねいにしていく」という方針が徹底しています。一般には、所定のページ数で、この方針を適用しすぎると、読み物のようになってしまうこともあります。しかし本書は、上記の方針を貫きつつも、重要な項目には抜けがないよう配慮されているのです。教科書を書く場合には、この相反する2つをいかに両立させるか、ということが課題となりますが、本書はその点にも配慮が行き届き、私にとっての「良い教科書」=「良い講師」だったのです。
 1年くらいかけて、大半を電車の中で赤ペン1本を片手に読み耽り、ほとんどは車内で理解できました。また、「空はなぜ青いのか」「飛行機に乗って上空に行くと紫に見えてくるのはなぜか」など、日常会話の中で紹介しても具体的かつ興味深い話題が豊富で、熱中して乗り過ごしそうになったこともあります。
 不思議なことに、毎朝見る空の青さも、理由がわかると昨日とは違ってみえてくるものです。




教科書の中の轡十文字

森 光 (中央大学法学部助教授)

 小学校から大学まで、数々の教科書を与えられてきた。その多くはもう手許にはない。処分を免れた教科書も、日々増大する書物におされ、次第に隅へと追いやられ、それを捜す作業は、既に「発掘」と称し得るものとなっている。しかし、1冊だけ、研究室の書棚の特等席に並び続けている教科書がある。大学1年の時の民法の教科書、四宮和夫『民法総則』(第四版 1986年)である。
 今、この本をパラパラとめくってみると、至る所に、薩摩の島津家の家紋である轡十文字のマークがつけられている。大学1年生の頃、この本を携えて、図書館の日当たりの良い席へと行き、この本に向かい合ったものであった。しかし、当時は、ただ頭から順に読み進める以外に本の読み方を知らなかったため、すぐに大きな壁にぶつかった。書いてあることがほとんど理解できなかったのである。ターヘルアナトミアの翻訳に挑戦した前野良沢や杉田玄白の苦労もかくの如きかと思う程であった。そこで、彼らをまねて、理解できない個所に轡十文字マークを付していったのであった。そして、このマークはたちまち増大し、ついにはこの本は放棄されることとなった。この本が再び日の目をみたのは、その3年後であった。当時、大学院への進学を志し再度民法に取り組んでいた時、ふとこの本のことを思い出したのである。この時は1年生の時とは異なり、この本は情報量溢れる好著として、私の前に現れた。以後、今日に至るまで、この本は研究室の特等席に並び続けている。
 このような本を学生は好まない。多くの学生にとって良い本とは、わかりやすく噛みくだいて書かれた、すぐに試験の役に立つ本であろう。そして、そうした方向を目指す出版物は年々増大している。しかし、そうした本にしか接していなければ、難解な本から必要な情報を読み取る力をつけることはできない。かの民法の先生は、本物の読書力を身につけて欲しいとの願いを込めて、敢えて難しい本を大学1年生に与えたのかもしれない。



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