読書の周辺
フ ラ ー レ ン
―その途方もない着想と発見―

篠原 久典

  「神が私に分子を作れとおっしゃったら、
   それはどんな分子だろうか?」
      ――オーヴィル・チャップマン

 自然科学においては、けた外れの発見がなされると、科学者達は自分たちの自己満足に衝撃をうけ、まだまだ自然を十分に理解しているわけではないことに気づく。このような大発見は1世紀の間に何回も起こることではないが、20世紀も最後の10年を残すだけとなった1990年に、物質科学の分野で、文字どおり新物質についての世紀の大発見があった。それは、今世紀中にはもう新しい物質の発見など出ないだろうと多くの科学者が思っていた、その矢先のことであった。しかも興味深いことにこの新物質は、あの薄汚い誰からも嫌われる真っ黒い煤(すす)の中から発見された。そしてこの新物質は、人類にとってもっとも馴染みの深い元素である「炭素」の新物質であった。

 炭素原子が60個集まってできた、まったく新しいタイプの炭素分子が多量に合成されたのである。この新炭素物質は、なんの変哲もない黒い煤に混じっているところをドイツとアメリカの科学者達によって発見された。しかもこれを発見した科学者達もこの炭素物質を合成しようとしていた訳ではなく、偶然にこれを発見してしまった。彼らは、宇宙空間に存在する炭素微粒子を長い間研究していた宇宙物理学者であった。驚いたことにこの新種の炭素分子(化学記号ではC60と書かれる)は、白い六角形と黒い五角形の模様で有名なサッカーボールとまったく同じ構造をもっていることがわかった(下図参照)。このためこの新規の炭素分子は「サッカーボール型分子」とも呼ばれている。



サッカーボールとC60の分子構造。C60分子は、
このボールの60個の頂点を炭素原子で置き換えた形をしている。


 現在では、炭素原子が60個集まったC60だけでなく、炭素原子が70、80、90、100と集合したC70、C80、C90、C100などの一連の球状炭素分子の存在も知られている。C60、C70、C80、C90、C100……などの球状炭素物質を「フラーレン」(Fullerene)と総称している。
 いったんC60分子が発見されると、原子、分子あるいは物質をおもな研究対象とする化学者や物理学者だけでなく、宇宙物理学者、地球科学者や分子生物学者など多くの分野の科学者が競って関連の研究を開始した。事実、C60が発見された1990年9月(発見の第一報はイギリスの一流雑誌「ネイチャー」の速報に掲載された)から1997年の末までの7年間に世界中で発表されたC60関連の論文数は、実に1万2000報を超えてい る。これは自然科学でもかつてないほどの科学者達の熱狂と興奮を示している。では、なぜこの物質がそれほどの大発見なのか? なぜフラーレンは科学者達をそれほどまで熱狂させるのか? パラドキシカルに聞こえるかも知れないが、それはわれわれにもっとも身近な物質である「炭素」のまったく新しい形だからである。

 炭素原子は、この宇宙に最も豊富に存在している元素の一つである。もちろん地球上にも豊富に存在していて、われわれの身近なものは全て炭素からできているといってもよい。炭素が宇宙でどのように生成したか、あるいは、炭素がどのようなメカニズムで地球上に蓄積されてゆき、生命や生物の進化が可能となったかという疑問は、昔から数多くの科学者を虜にしてきた。そう、炭素は生命の源でもあるからだ。それでは、宇宙空間や地球上に存在する炭素は、どんな形で存在しているのだろうか? 一般に炭素は二つの結晶形態(「同素体」とも呼ばれる)、グラファイト(黒鉛)とダイヤモンド、をもつことが知られている。グラファイトは鉛筆の芯はもとよりエレクトロニクスや工業製品など多方面で使われていて、人類の科学技術を支えている物質といっても良いだろう。また、ダイヤモンドは一般には宝石として有名だが、グラファイトと同様に各種の工業製品の重要な材料として利用されている。
 1990年までわれわれ人類は、炭素の同素体はグラファイトとダイヤモンドだけであると思っていたし、これ以外の炭素の結晶形があるとは予想もしていなかった。しかし、突然のフラーレンの発見によって、炭素の化学、物理、材料科学を扱った無数の百科事典や高校、大学の教科書は文字どおり一晩にして時代遅れになってしまった。今や、炭素の形態はグラファイトとダイヤモンドの二つだけでなく、フラーレンを加えた三つになった。

 サッカーボール分子C60を初めとするフラーレンの発見は、一見、炭素の新物質とは関係のないような天文学、宇宙物理学の分野から始まった。リチャード・スモーレー(ライス大学)とハロルド・クロトー(サセックス大学)の共同研究グループは、未知の星間分子(星と星との間に観測される分子)の存在やその性質に興味をもっていた。彼らは特に、宇宙空間における長い直線状の炭素分子の生成メカニズムに興味をもっていて、実験室でこのような炭素分子を作りだそうと「レーザー蒸発クラスター分子線」という非常に精密な装置を用いて実験を行った。その結果、予想に反して思いがけずC60を偶然に実験的に発見した。これはC60の発見にまつわる、第一のセレンディピティー(偶然の発見)となった。
 この発見は、非常に奇抜で魅力的だったので、発見当時(1985年)、このスモーレーとクロトーらのC60サッカーボール型分子は大変な話題となった。しかし、残念なことに、グラファイト棒のレーザー蒸発による方法で生成されたC60の量は極く微量だったので、正確な構造解析ができなかった。実際に、C60がサッカーボール型構造をもっていることが実験的に解明されるまでに、5年の歳月が必要であった。
 フラーレンの発見についての第二のセレンディピティーは1990年に起こった。C60の研究熱も一段落した1990年9月、ウォルフガング・クレッチマー(マックス・プランク研究所)とドナルド・ハフマン(アリゾナ大学)らは共同で、グラファイトのヘリウムガス中での抵抗加熱という実験方法で生成する炭素の煤の中には、C60が多量に存在することを発見した。
 宇宙空間、特に星間には、決まってある異常なパターンの吸収スペクトルおよび発光スペクトルが観測されていた。このスペクトルの原因はなかなか説明がつかず、科学者を長い間悩ませてきた。時がたつうちに、このスペクトルは宇宙空間に存在するある種の炭素物質が関係しているのではないか、と考える科学者が出てきた。ただ、この炭素は、スペクトルの形から地球上に存在しているグラファイトやダイヤモンドではないことが解っていた。クレッチマーとハフマンらは、この天文学上の大問題を解こうとして、思いがけずC60の多量合成法を発見してしまった。
 クレッチマーとハフマンの生成方法は、スモーレーらのレーザー蒸発法と比較して大変に簡単でしかも安価(!)な方法であった。ヘリウムガス雰囲気中で、グラファイトに高電流を通じて抵抗加熱を行いグラファイトを気化させて炭素の煤を生成すると、その煤の中には10%前後のC60が存在することを彼らは発見した。生成した煤の固まりは、グラファイトに似て不溶性であるが、C60はベンゼンやトルエンなどの有機溶媒に溶けるので容易に煤から抽出することができる。また、煤からはC60以外にもC70が抽出された。興味深いことに、この二人は、星間に存在するとされるグラファイトに似た煤のような物質を作りだそうとして、またもや、偶然にもC60の新合成方法を発見したのである。この重要な発見が報告されると、世界中でC60の研究が急激に活発になった。
 C60を初めとするフラーレンは1990年以後の研究によって、超伝導体や半導体あるいは強磁性体(磁石)になることがわかった。また応用としてフラーレンは、リチウム二次イオン電池や光学素子に有用であることがわかってきた。また、フラーレンはHIVエイズウイルスの酵素反応の阻害剤や、MRI(磁気共鳴診断)の造影剤としての医学方面への応用にも大きな期待がかかっている。さらに驚いたことに、C60は6500万年前の恐竜絶滅時代の白亜紀/第三紀境界地層や、2億5000万年前の生物大絶滅時代のペルム紀/三畳紀境界地層などの自然界からも発見された。これら分野を超えた発見は、自然科学の多くの分野の科学者がフラーレン研究に夢中になっている証しである。

 フラーレンの発見を間近にみて、またフラーレンの研究者として私自身、自然科学における発見とはなんだろう、と思う。C60とフラーレンの発見はいままで述べてきたように、大型予算をつぎ込んで行う最近流行のプロジェクト研究とは正反対のところから生まれた。1985年のフラーレンの発見はアメリカとイギリスの科学者の共同研究とはいえ、少数(教授3人と大学院生2人)の研究者の極めて個人的なレベルでの共同研究の結果であった。また1990年のフラーレンの多量合成法の発見もドイツとアメリカの共同研究だが、少数(3人の研究者と1人のアルバイトの大学院生!)の研究者の個人的な共同研究で行われた。しかも二つの大発見ともセレンディピティーの産物であった。物質科学における世紀の大発見は、天文学と宇宙物理学の研究途上で起こった異色のセレンディピティーであった。フラーレンの発見に、失われつつある科学の発見物語をオーバーラップさせて、何かいいようのないロマンを感じるのは私だけであろうか?
 今や時代は、大グループによる大規模実験が主流である。ノーベル賞もアメリカのエリート大学で、恵まれた研究環境にいる飛びきり優秀な研究者が獲得することが多い。それはそれでいいと思う。しかし、私はこのような研究にロマンを全く感じない。このような研究に対しては、個人的には“So What”といいたい。サイエンスの魅力はやはり、小グループの小規模実験によるブレークスルーである。キュリー夫人のラジウムの発見がそうだった。ワトソンとクリックのDNAの発見も若い二人の独創力だった。そして、今まで述べてきたC60・フラーレンの発見もまさにこの典型である。科学者個人の独創力と執念(と幸運)で行うことのできる大きなブレークスルーが、21世紀を目前にひかえた現在でも存在することを証明したのが、フラーレンの発見である。このような個人レベルでの発見ほど、科学者を奮い立たせ、研究に没頭させるものはない。科学者をとりこにするのは個人レベルでの疑問と発見である。
 1990年に起こったフラーレンの多量合成法のブレークスルーを契機に、フラーレン科学は多くの自然科学の分野の研究者を虜にし始めた。これは、今まで別々に発展してきた化学、物理あるいは材料科学などの各分野が、C60を初めとするフラーレンを核として共通の話題を持ち始めたためである。現在、多くの科学者がそれぞれの専門分野を越えて、大きな情熱をもって、C60・フラーレンを語っている。フラーレン研究を行ってきて、私は、この分野を越えた共通の話題性が何よりも素晴らしいと思う。
 フラーレンの科学は、多量合成のブレークスルーから8年目を迎えたが、基礎的な分野だけをとっても、まだまだ解明されていない多くの重要なテーマがある。また、フラーレンの応用研究はこれからの5年間が勝負の時であると思う。現代の科学の多くの分野が抱える、心が踊るような研究テーマの欠如という深刻な問題からは、C60・フラーレンの科学は無縁である。まだまだサイエンスを楽しめるだろう。
 しかし、この先もっと驚くべき発見が起こることを期待したい。一夜にして教科書が時代遅れになるような。
(名古屋大学大学院理学研究科教授)


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